海の底で暮らすのさ

 海の中はきれいだ。遠くは見えづらいが、そこも水で満たされていることは分かるし、ずっと広がっていることも分かる。やっぱり、すべての母は水なんだ、海なんだと思う。こちらがあるべき姿であるとすら思う。それでも、僕たちは地上を知ってしまった。地上には海の中にないものがいっぱいある。おいしいもの、楽しいもの、面白いもの。そんなものがあっという間に手に入る。海から上がるのは大変だけど一度、地上での生活に浸ってしまったら全然戻ってこない人もいる。だから僕は地上が怖い。いったんそっちの世界に出てしまったら終わりな気がする。でも、みんな行ってしまう。僕はここにいたら一人になってしまうのかもしれない。大丈夫だって、もし深海の世界に戻りたくなったら「ちょっと浮上の回数が減ります」って言えばいいんだしと言われたこともある。そうなのかもしれない。それに、もう地上に行ってしまった人たちにもう一度会いたいなとも思う。


 どんどん僕は一人に近づいていった。仲良しが二人で連れ立って地上に上がったときは、三人で仲良しなんだっていう自分の考えが間違っていたのがよく分かった。あの二人にしてみれば、自分たちプラス僕っていう感覚だったわけだ。勘違いだったんだ。別の人に一緒に来てよ、と言われたこともあった。誘ってくれたことがうれしかった。でも顔が僕の方を見ていても、その目は僕を見ていなかった。そんなことに気づいた自分が嫌になったけど、自分を引き留める理由ができたことはうれしかった。やっぱり僕はこの海に沈んでいたい。僕は海を出て地上に行こうと思えばいつでも、簡単にできる。ちょっと強く地面を蹴ればよいだけだ。でも、地上に出ていこうとしても、そうはいかない人がいる。そんな人たちのためにここに残って何かがしたかった。だから、今までもずっとここにいたのだ。


 でも、理由はそれだけじゃない。僕の周りには僕だけに見えるものがある。それはやっぱりここにいないと分かんない。感じられない。僕はこれを感じないといけない。ここに居ていつも感じていないといけない。忘れてはいけない。忘れるわけなんて無いんだけど。誰かに忘れろと言われたわけでもない。でも、忘れたら?とか、忘れるしかない、とはよく言われた。そうなのかもしれない。実際、地上で暮らし始めたら、忘れてしまうのだろう。でも、ここにいると忘れることすら叶わない。それが大事なんだと思う。常に一緒であるという感覚。そう、その思いこそが僕をこの海の深くに縛り付ける。僕は縛り付けられるべきだし、縛り付けられたいし、最後まで縛り付けられることが、今の僕に唯一、残されたできることなんだ。

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