セミの抜け殻を

 セミが鳴き始める。夏の風物詩だ。そうは言ってもセミが鳴く時期は年々早まっている気がする。安積 蓮は小学3年生。

 小学1年生のときの夏に彼はセミの抜け殻を踏んだ。パリッという音がしたか分からないが、そんな乾いた音がした気がした。かつて生きていたものが本当に死んだ気がした。もはや粉に近い散らばった欠片はすぐさまどこかへ飛んで行った。風の前の塵とはこういうものを指すのだろうか。友達が公園で待っていた蓮はそのまま歩いた。セミの抜け殻がやけに目につくにようになっていた。目を凝らさずとも低木のふもとや大樹の幹などいたるところにいる。一つひとつ蓮は指で押し潰した。羽化の時に半透明な羽が出てきたであろう背中にふっと力をかけて。そんなことをしていたら、着くのが遅くなった。友達はなにも言ってこなかった。鬼ごっこは次第にかくれんぼになった。山の中に一人が入ってしまったから蓮も続いた。そこかしこにそれらはあった。砕く対象にしか見えなかった。はじめから粉に見えた。ひとりだけセミの抜け殻と遊んでいた。一方的に。同年代の子がアニメのキャラクターのスタンプをコンビニで集めているように、徒歩圏内は制覇したという頃に夏は終わった。セミの音も止んだ。

 蓮は学校帰りだった。梅雨も明けた。3年生になって担任の帰りの会での話が長いと彼の友達は文句を言っていた。彼の頭はそろそろあれが現れる時期だという考えに覆われている。実際、翌日から一気に夏の雰囲気は濃くなり、セミの音と言うのを人々が思い出し始めた。蓮は帰り道を丹念に見ていた。最初の一つさえ見つければ自分のアンテナが無意識にオンになることを去年彼は学んだ。花の咲いていない躑躅。白い花が咲く株の下の方を見つめる少年。数分後、急に顔を上げた。周りに誰も通っていないのが幸いだった。うっとりとした目の彼は枝の隙間に手をのばした。薄い膜がひとさし指の先に触れる。少しだけの抵抗感がたまらない。まるでそんなことを考えているかのような表情を蓮はしていた。だれも気付いていない。少し横にもセミの抜け殻があった。次は左手を伸ばす。バスの乗車ボタンを押すかのように純朴な動き。空気の揺れだけが感じられるような静かな音が聞こえた。その後おとなしく蓮は家に帰った。

 次の日。眠い目をこすりながら、昨日を思い出して少し上気している自分を心の中に認めながら、蓮は算数の授業を受けていた。中休みまであと3分。背後になにかを感じた。のべっとした力が自分の背骨をゆがませてくる。じわりじわりと軋む。背骨が折れるまでほんの数秒。そこから砕け散るまでほんの数秒。夏らしい風が吹いた。

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