ねぇハニー、今日はどこへ行こうか

 ねぇハニー、今日はどこへ行こうか。——そうね、今日は海に行きましょう。二人は一番近い海に車で向かった。潮風が気持ちよかった。不思議と周りは気にならなかった。太陽に透けた白い肌が美しかった。なんでもない言葉がいつもより美しく聞こえ、自分の声は遠くへと吸われていった。何かに必死であった。寄せてきた波は心地よい温度だった。一様に砂を湿らし跡形もなく消えていく。

 ねぇハニー、今日はどこへ行こうか。——そうね、今日はあなたの思い出の場所に行きたいわ。早速二人は特急列車の切符を買って少し遠く目指す。新鮮な土地に一人ははしゃぎ、一人はノスタルジックになる。ぽつぽつと語られる思い出の日々。それに続く相槌。うっとりとした目は遠くを見ている。その目が過去を見ているのかは判然としない。ただ、今を見ているわけではないようだった。もしかしたら、どこも見ていないのかもしれない。かつての高い塀は背が低くなっていた。大きな樹はそのままに見えた。

 ねぇハニー、今日はどこへ行こうか。——そうね、今日はどこかに行く気分ではないの。紅茶をもう一杯、淹れることにするわ。ティーバッグがしまわれ、戸棚からクッキーの缶が引っ張り出される。レースのカーテンが揺れる。湿ったオレンジ色の光が食卓にかかる。規則的な模様。いびつな丸い形。素朴な味。二人は談笑している。こっちのジャム味がおいしい、これも中々だ。もうあと一つしかないじゃないか。二人きりの家が明るくなる。残されたクッキーは少なくなっていく。

 ねぇハニー、今日はどこへ行こうか。——そうね、今日はあなたの行きたいところに行きたいわ。参ったなという顔をして適当にハンドルを切る。ラジオを止める。きみの行きたいところに行きたいから、きみに聞いているんだけどな。そう照れる顔を見る目は呆れているようでもあった。結局、近くの高台の前に車を止めた。星が出るには早かったが、遠くでは月が輝いていた。いつか見た姿に似ていた。

 ねぇハニー、今日はどこへ行こうか。——そうね、なんであなたはいつも私に決めさせるの。きつい口調が二人の耳に響く。なんでって言われても。男の声は終着点を探している。その手は女の手を導く。少しの沈黙の後、二人は歩くことにした。足取りに迷いはないが適当にさまよっているのは明らかだった。いつもとは違う方向に歩を進める。道は緩やかに曲がる。二人はどこも見ていない。それぞれ相手の温度をそれぞれの体側で感じていた。

 ねぇ。ハニー。今日はどこへ行こうか。——そうね。

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