お気に入りの詩人のエッセイ集。いつしかその言葉がうざったくなって買うのをやめた。好きだった珍味。久々に食べると嫌いになった。なんであんなに食べていたのか分からない。何度も聞いていたバンドのメロディー。今ではかっこいいそのフレーズに嫌な鳥肌が立つ。これらは昔は好きだったのに今は嫌いなもの、もしくはそうでもないもの。対して、今でも好きなものというのも確実にある。元々食べることは好きだ。特に甘いもの。一週間のご褒美に食べるプリンは長く続く習慣だ。女性歌手の往年のヒットメドレーも大好きだ。本屋に買いに行って積んでおいた好きな作家の作品を、時間に余裕ができたときに読むのも大好きだ。多分今でも好きなはずだ。


 ある日、好きな人から、久しぶりに電話がかかってきた。忘れかけていたころだった。電話を好む人ではなかったし、最近は何のやり取りもしていなかった。青天の霹靂だった。昔から自分のことが好きだったという。青天の霹靂である。もう、海外に行ってしまうのだという。あなたのことを忘れるしかない。もう連絡はしないし、しないでほしい。泣いてるのか笑っているのか分からない声でそう言って電話は切れた。青天の霹靂。


 悲しくもなんともなかった。ただ枕が濡れた。驚いた。それでもいつも通りに翌朝を迎えた。いつも通りの日常が送れた。一週間のご褒美にプリンを食べた。いつも食べなれた味だった、はずだ。程よい甘さと落ち着いたカラメル。前、食べたときとそう大きく味が変わるはずがない。でも、何も感じなかった。悲しみを消すために消化されていった。きれいな歌声はきれいだったのだろう。同じCDを聴いているのだから当然だ。自分が変わってしまっただけ。歌声は悲しみに負けて霧消した。小説に手をつけた。歴史的大作、待望の文庫化と謳われていたから面白いはず。途中まで読んだ。面白かったはず。いわゆる、三文小説ほどの価値もないように思えた。まったく心が動かされなかった。全ての感情が悲しみを消すために使われているのだろうか。好きだったもので心を埋めようとするたび、今まできらびやかだったものがその魅力を失っているのを見た。魅力はすべて無力化された。マイナスをゼロにするので精いっぱいだった。なにより、自分が悲しんでいることが白日の下にさらされるようだった。それでもこれらを好きだったころには戻れないし、そんな感情はもう呼び戻せない。


 毎日が怖かった。ふとした拍子に昔を思い出した。まわりが静かになったときに電話越しのあの声が聞こえてきた。自分の心に何もなくなったとき、自分を忙殺するものが解消されたとき、残されたのは失ってしまったという感覚だった。失いたくないものは失われ、不要なもので心を慰めようとする。

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