残り香

 もしも神様がいたら愚かしい、などと上から吐き捨てるのだろう。暮れかけた日にすずめが呼応する。ドアに押し出された空気が秋を強調する。同じ柄、大きさ違いのグラスは自らのデザインを恥じるかのように陰っていく。私を動かせなくてもいいから、手を動かせ、と頭が言っている気がして立ち上がる。シンクに跳ね返る水道水も袖を濡らす。ただ水をたたえてゆすぐだけ。二つをまとめて洗うこともこれが最後かもしれないと気づく。見てはいけないものを見てしまったような感覚。過去に二度と味わいたくないと誓ったはずだった。

 カーテンの外では暗い雲が白い雲と綱引きをしている。その前に僕の手に解放されたタッセルの勝ち。たちまち部屋の中は象牙色で包まれる。流れ作業で鍵を閉めてパーカーを羽織る。スニーカーが僕に追いかけるという選択肢もあったことを示す。同時に僕の疲れ切った心の存在をあらわにする。自分が冷めてしまったのか、と思う。固まりかけたカルボナーラが思い浮かぶ。昨日もコンビニのパスタだったという思考に侵食された頭と一緒に3分ほど歩き、オレンジと緑の帯が目に入る。

 ワンコインで収めたいと考え、財布の不在に気づく。またのご来店をお待ちしております、の声に見送られアパートまで戻る。ほら、僕だって多少なりとも焦っていたんだ、誰に言うでもなくつぶやく。こういうところを神様は聞いてくれまい。階段をけだるく上り鍵を開け、くたびれた財布を手に取る。僕の好みではない赤ワインの記載されている2か月前のレシートが僕の目を刺す。僕はあっさりしている方がいいのだ。

 何を血迷ったのか足はさっきと逆方向へ向かっていた。何かに引き付けられるように、犬がリードで引っ張られるように。数分すると駅に着いていた。下り方面のホーム。確か、こっち方面の家だった。無意識を意識してしまった今、どうにもすることができない。

 中途半端な思い。白でも黒でもないことは当然。チャコールグレイぐらいの微妙さ。混ざり切る直前のコーヒーのミルク。溶け切らないトーストの上のバター。結局、弁当を1つだけ買ってアパートに戻る。僕の思いを反映しているのか、いつもより外壁の粗さが目立つ。テレビをつけると少し甲高いコメンテーターの声。似ていないものまで、似ていると思ってしまうのはあきらめの悪さゆえだろうか。自然と9時からのドラマのチャンネルに合わされていたテレビ。

 残滓がうっとうしいような、それでいて完全に消えてほしくはないような。小さなグラスからはまだ、かすかに水滴の垂れる音がする。僕はそれをもう一度洗った。水滴の音が再び主張を始める。

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