しりとり

 リストカットの跡。途方に暮れながらカッターの刃をしまう。後ろめたい気持ちに少し浸りながら、手首を見る。縷々と流れていた血も、もう乾きかけ。結局、身体の治癒力ですぐになかったことになる、なんてことはお決まりだ。だからといって、この行為が無駄だとは思っていない。一瞬でも血が流れて傷がうずくと、傷ができて痛いんだな、という考えが浮かぶ。物理的な痛みなんだ、今、自分が苦しんでいるのは。分かっていながら、そう思い込む。無理やりだけれど、こうやって心の痛みを忘れようと努めているのだ。大丈夫、傷が治れば痛みは全部消えてしまう。嘘だと気づいていながらも、気を紛らわせることにもう、慣れてしまった。楽しいとか悲しいとか、いちいち思っていると疲れる。留守番電話と同じ。自分がいないときは留守電にメッセージを残してもらう仕組み。身も心もボロボロのときは、感情なんて捨ててしまう。受け取らずに、どこかに受け流す。すっかり、このやり方に慣れてしまうと、自分が何を感じていたかなんてもうわからない。言いたいことがあったら言いなさい。言いたいことなんて無いです。素直に言っていいのよ。よくわからない。言いたいことを、言いたいときに言えない状況が続くと、言いたいこと自体が、そういう発想そのものが消えていくらしい。嫌というほど実感させられた。多分、もう、自我なんていう感覚は戻ってこないのだろう。嘘をついているとも、いえるのかもしれない。偽りの感情。うやむやにして日常を切り抜け、やり過ごす。全て無駄なのかもしれないけれど。どこかで自分の気持ちに向き合わなくてはいけない。いつも、それを分かっていながら、ごまかす。すり替え。演出。つかの間の安息。苦しいけれど、他人を基準にしてやり過ごす。全て、あなたのためだから。楽に生きることのできるこの言葉。馬鹿にはできない。色々なことから目を背けることができる。ルール違反なのかもしれない。生きるのは自分のため。めいいっぱい、自分の願いを叶えようという努力が正解なのだろうか。価値の判断基準を他人に押し付け、嫌なことがあった日も、あなたが笑っているのなら帳消し。信じられないほど心が軽くて、目の前は明るい。今だけかもしれなくても、こうやって生き延びてゆく。苦し紛れに見えるこの生き方は案外ありなのかもしれない。一切の感情を捨て、人のために生きるという大義名分で命をつないでいく。苦しみから解放された証。

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