お月さま

 電車の中で人々は本を読んだり、新聞を広げたり、外を眺めたり、会話に興じたり、寝こけたりしていた。かつては。今では、みな小さな液晶に目を落としている。まさに釘付け。SNSなのか、動画なのか、ゲームなのか、漫画なのかは分からないが。寝ている人というのは今もまだ一定数いるが。こんな風に、その販売開始以降、人々をスマートフォンが侵食している、とよく言われている。


 それも、少し前までの話だ。


 今では、歩く人はみな上を向いている。打って変わって、上を向かずに前を向きましょうなんて呼びかけられている。なぜか。なぜ、上を向くのか。これは、ある老人の言葉からだった。輪郭はおぼろげだが、声ははっきりとしていて、杖をついている。実際に見たことがあるという人はいないが、それらしい人物の目撃情報およびその動画というのは、今となっては日本社会にあふれている。

 その男はいつもこう言う。


 月を見ようではないか。いつも月は私たちを見てくれているのだから。


 これ以外にレパートリーはない。上をずっと向いているのかと思っていると、ふっとこちらを見て、この言葉を発する。そして、立ち去る。

 この言葉の解釈は幾通りにも及ぶ。一番多いのはやはり、お天道様と同じ感覚で、私たちがいいことをしているのを月は見てくれているし、悪い行いも見ている。だから、正しく生きなさい。というものだ。


 おそらく、この説は正しいのだろう。こういう考えは古今東西よく言われていた。ただ、私はこれだけではないのだろうと思う。もちろん、人々が月を見上げ始めた理由はその通りかもしれない。だが、私はそれ以上に大きな理由があったのだと考える。それは、月を見上げるという行為が広まったからこそとも言える。


 多分、人々はあの人も同じ月を見ていると、それぞれの心に特定の人物を思い浮かべながら月を見ているのだろう。月自体を見ているのは言うまでもなく、月を通して、その人を見ているのだ。ちょうど、かぐや姫を思う老夫婦のように。帝のように。


 これは、今までの解釈にはない発想だと思うし、何より、このような考え―信仰とでもいうのだろうか―は今も昔もどこにも見受けられなかったのではないだろうか。


 そう思って、私は今日も月を見る。

 幸いとでも言うのだろうか、まだ人々は液晶に夢中だから、親しい人だけに月の良さを語ることにでもしようかと思う。


「月がきれいですね」

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