第27話


 奉じる皇子がしいされた事などつゆ知らぬ守屋は一人勇んでいた。

「萬、そなたはすぐに難波の家に向かえ。いざという時はそこに穴穂部皇子をお連れする。怠るでないぞ」

 大声で命じた主を

「難波でございますか?」

 萬は怪訝けげんな表情で仰ぎ見た。

「そうじゃ。あそこならば万一の時に船を出せる。今夕こんせきにはこの地に皇子がいらっしゃる。さすれば、明日にでも戦いが始まろう」

 なおも、問い掛けるような眼をした萬に守屋は高笑いで応じた。

「何、心配はない。お前がいなくとも蘇我の軍など蹴散らすのは容易いこと」

 久しぶりに主は高揚している。

 だが・・・萬の疑問は別のところにある。仕え始めた時から、何につけても守屋は力任せに押すことだけを考え、それが蘇我との軋轢を深くしてきた。以前の守屋ならば軍を分けたり、いざという時のことなど考えたりせず、阿都に全軍を置き一気に征討軍を蹴散らすことを選んだに違いない。歳と共に物事を深く考えるようになったのだと言えばそれまでだが、萬には裏木戸を開けておくという慎重さが守屋の不安の裏返しのように思えた。しかし、萬の懸念を蹴散らかすかのように、

「いざとなれば呼び返すこともあるかもしれん。その時は頼りにするぞ。だが・・・心配するな。わしが戦で遅れを取ることはない」

 と言った守屋の自信に満ちた太い声に

「では」

 と、短く答え萬の下につく者たち、総勢五十人を従えて、萬は阿都を発った。難波にいるものはやはり五十の精鋭の兵、合わせて百人いれば取り敢えず難波を守るのは難くない。

 それ故、萬は穴穂部皇子が弑されたと伝えられた時の守屋の表情を見ていない。


 守屋から萬の許へと遣いが届いたのは難波に着いた翌日であった。戦備いくさそなえに奔走していた萬は、その知らせにすぐその手を止めて邸を出た。門際で使者を迎えると、側の者に

「馬をってやれ」

 と息を切らしている馬を指さした。

 遣いの者も阿都から一気呵成に馬を飛ばしてきたせいかぜいぜいと喘いでいるがその目は萬を見据え血走っている。何か良からぬことが起こったのかもしれない、という予感がした。

「それで、穴穂部皇子はご到着になられたのか?或いは戻れというご命令か」

 萬は尋ねた。目の前にいる男は顔馴染みの使者である。男は漸く息を整え、口に溜まっていた粘った唾を吐き出すと、

「穴穂部皇子は薨御こうきょなされた由にございます」

 と答えた。

「なんだと?」

 思いもかけぬ言葉であった。思わず、

「どういうことだ」

 と遣いに詰め寄った。その勢いに気圧けおされるかのように思わず後ろに下がると、

「穴穂部皇子におかれては、蘇我の手の者に、邸に火を放たれてお亡くなりになったとの知らせが参りました。蘇我の手の者が、主上からの詔に依って、との事でしたが・・・。わざわざ知らせに来たのは蘇我の悪意でございましょう。無念にも皇子は賊徒ぞくととして討たれたのでございます。邸は赤々と燃え、その煙は宮を包むばかりか山を下り、そのことを知らぬ民が皆逃げ出すほどの勢いであったとの事」

 と遣いはつかえ閊えながら一気にそう言った。

「漏れていたか・・・」

 萬は呟いた。

 穴穂部皇子の遣いは自分が八度目の使者だと言っていた。むしろ初めの者たちの方が気の利いた者である筈なのに・・・。その時なぜ、と心中にきざした疑念をそのままにしたのは誤りであった、と萬はほぞを噛んだ。辿り着いたひとつ前の使者が謀反を口にしたに違いあるまい。

「主はいかがなされている?」

 と尋ねた萬に、

「それをお聞きになった最初のうちは放心なされたように天を仰ぎ、そののち滂沱ぼうだと涙を流されておられました。そして資人殿に伝えよと・・・」

 うむ、と萬は頷いた。

「守屋は鬼となり、皇祖をお守り申す。汝も心を決めて鬼に従い、蕃神との戦いに備えよと、の言伝でございました」

 萬は首を傾げた。守屋が守る皇祖とは誰のことだ?穴穂部皇子が弑された以上、思い当たる者はいない。守屋がいかに皇祖を守ると主張しても人はその先に具体的な対象がいないのでは、他の族を従わせるのは難しいのではないだろうか。

 だが、目を閉じると

「それで、兵を挙げるのか?私はどこへ?」

 と問うた。遣いは首を振ると、

「そのまま難波に残って守りを固めよ、との事でございます。今、兵を挙げては事を仕損じる、と申されて」

 と答えた。

 確かに穴穂部皇子を喪ったからと言ってそれを理由に兵を挙げて宮へ攻め入れば、世間は守屋を反乱者としか見まい。穴穂部皇子は逆賊として討たれたのである。

 むしろ守屋は宮の軍を自分の領で迎え撃って蘇我を討ち、そのままの勢いで宮に凱旋することを狙っておられるのであろう、と萬は理解した。

 売られた戦いの方が世間の目は同情的である。それに今、宮に攻め込めば巻き込まれる宮人たちの人心を失いかねない。

 しかし、自分に難波で待てとは?敗走した時の逃げ道としてお考えなのであろうか・・・?

 そのまま沈思している萬を遣いの者がじっと見守っている。やがて、静かに目を開けると

「よし、分かった」

 おもむろに萬は答えた。


 国を割る二つの勢力は大和と摂津というごく近い距離をおいたまま、にらみあうこととなった。


 その年の七月。

 遂に大臣が豊御食炊屋姫を前に大連物部守屋を征討するという議事をはかる事になった。

 一月ひとつきの間、馬子は決心を固めることができなかったのである。もはや敵対する族は物部のみだが、政治と軍事は明確に対峙たいじしていた。帝の周りの者たちが馬子の周りに集まっても、いくさ人は物部を棄てることをしなかった。守屋からそれまでに受けた恩義を忘れていなかったのである。馬子は帝側につけば、いくさ人もいずれこちらになびくだろうと考えていたのだがそれは誤算であった。

 だが、帝を立てることもできず、先帝の喪を執り行うこともできぬままでは国が成り立たぬ、という声は宮の内で次第に高まった。

 馬子は決断を迫られた。中臣を抑えつけ、反逆を図った皇子もいなくなった今、これ以上そうした声を無視すれば大臣としての立場が揺るがないとも限らない。長い間緊張を保ったまま、政治的な空白を作ることは大陸や韓の半島の国々に対してもすきを作ることになりかねぬ。

 議に集まったのは日継の御子である泊瀬部皇子を初めとして竹田皇子、厩戸王、春日皇子といった皇族と巨勢こせかしはで葛城かつらぎ、大伴、阿部あへ、平群、坂本、春日かすがという有力一族たちである。その顔ぶれを見れば、もはや貴人の間で物部が孤立していることは一目瞭然である。

 中臣、忌部などの一族は息をひそめて逼塞ひっそくしていた。

「大連は先の帝の遺された詔に違い、穴穂部皇子を奉じて帝を立てようとした。それが罪の一。自ずから皇統に連なる者ではないのに、皇統を守るために戦うと述べた。それが罪の二。先の帝が望まれた仏の道への帰依を妨げたばかりでなく仏の道を今なお妨げようとなさる。それが罪の三」

 朗々と読み上げる蘇我馬子の声に頻りに頷く者たちが中にいる。

 彼らにとって守屋の存在は今となっては暮らしを脅かすものでしかない。もし、守屋と馬子が逆の立場であれば、守屋に向かって同じように頷くに違いない者たちは、自分の地位を保つために殊更に賛意を示そうと必死であった。

「先導として大伴連嚙おほとものむらじくひ阿部臣人あへのおみひと志紀郡しきのこほりを目指し、今より発て。次いで・・・」

 蘇我馬子の命令に応じて、集った者たちの役割が定まっていく。氏族たちの長たちは役割を伝えられるたびに勇んで声を上げた。だが、実際に戦いに参加する者たちは内心怯えていた。先導を申し渡された大伴の軍勢では

「さて、こちらは確かに上に立つお方は多いが、軍には不慣れなお方たちばかり。物部の強兵に果たして勝てるものか」

 とおののく者が多かった。金村が存命の時の大伴は物部に引けを取らぬほどの強兵で鳴らしたものだが、金村が失脚してからというものの物部に太刀打ちできる兵力は失われていた。

 やがて・・・多すぎる指揮官と内心怯えている兵たちの軍は続々と宮を後にした。

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