第25話


 阿都に籠った守屋はれていた。宮の状況がさっぱり分からぬのである。

 帝の病状に関しても何も情報が入って来なかった。

 密かにあてにしていた中臣からの情報も入ってこない。勝海が殺された時に知らせてくれた者も、それ以来沈黙を守っていた。大臣から釘をさされたのだろう。守屋から槻曲の邸のことで恫喝された馬子は情報の兵糧攻めを仕掛けた。

 神官に属する中臣は物部と違う形で情報網を築いている。帝が生きておられるかどうか、神官であれば儀式一つで判る。中臣が畏まって儀式を司ることを控えていたとしても神官という根で一つに繋がった情報の網に引っかかる筈だ。だが勝海の死と共に中臣からの情報はふっつりと途切れてしまった。

 守屋とて、帝が御存命の間は楯突たてつくことは考えていない。その理由は守屋にさえ分明ぶんみょうではない。一種、本能のように一度仕えた相手には叛旗はんきを翻そうなどと思いもよらないのがこの男の思考である。

 だが・・・万一帝が崩御なされたなら。

 新しい帝が立つ前に穴穂部皇子を奉じて新しい帝に立てようと決意している。日継の御子が蘇我の陰謀によって立てられたのだと考える守屋は日継の御子に正統性を見出していない。その時の事を考え、色々と軍の布陣を考えているのだが、宮の状況が分からねばきっかけが掴めないのである。

 膠着こうちゃくした状態のまま四月が過ぎ、守屋が帝の崩御を知ったのは五月も半ばを過ぎた頃であった。その間、穴穂部皇子が守屋へと立てた遣いはことごとく途上で捕まり、或いは殺された。捕まった者たちは自白を拒んだ。そして或る者は自死し、或は拷問ごうもんにかけられているうちに死んだが、遂に一人が自白した。その中身は、

「帝は崩御なされた。ついては吾を立て帝とせよ。今の日継の御子は廃し、蘇我を討て」

 というものである。穴穂部皇子を討つ名分はこれで立ったのだが、馬子は敢えてそのまま放置し、次の遣いが守屋へと報せを届けるのを見逃した。そして守屋の遣いが穴穂部皇子へと返答をもたらすのも見逃したのであるが、かわりに穴穂部皇子の部屋に人を忍ばせた。

「あくまで・・・」

 馬子は考えている。叛乱の正当な理由が必要である。物部守屋が叛乱に加担したという事実を馬子は求めた。それこそがのりであろう、と考えるのはこの男の思考である。則がなければ信は得られぬ。


「大連は何と言っておった」

 と問う穴穂部皇子に遣いのものは声を潜めて何かを伝えた。

水無月辛亥みなづきしんがいの日か・・・」

 穴穂部皇子がそう呟くのが聞こえた。更に遣いの者が小声で何かを話続ける。

「何、淡路?しかしわざわざ淡路まで行って狩と?どういうことか?」

 と不審げに答えた穴穂部皇子に、

「淡路と言えばその中途に・・・」

 と押し殺したような遣いの答えが重なった。どうやら、その日に淡路に狩に行くという名目を立て途上の阿都で合流し宮に攻め込もうという心積もりのようである。狩の名目であれば、人も弓矢も備えて旅立つことができる。

「分かった。では宅部皇子やかべのみこには私から伝えよう。そなたは取って返して大連に委細いさい承知と伝えよ」

 宅部皇子は穴穂部皇子の弟であり、三輪逆を誅した時、兵を共に率いたのは実はこの皇子である。宅部皇子も穴穂部皇子同様、実の弟が帝に推戴されるのを快く思っていなかった。

 遣いの者が去るのを満足げに見送った穴穂部皇子の目は輝きに満ちていた。

「これでようやく・・・」

 帝になれる、と言う言葉を呑みこんで寝屋へと引き上げていく穴穂部皇子の足音を聞き終えると、そっとその部屋を抜け出す影があった。


 水無月庚戌みなづきかのえいぬの日は穴穂部皇子が大連と狩を約束した前日である。その夜、穴穂部皇子は機嫌よく床へとついたのである。

 狩に行くことの許しは取ってある。今、帝の即位を前に政を預かるのは先々帝の皇后である豊御食炊屋姫であり、帝不在のこの時に、と諫められるのではないかと恐れていたが存外に容易に許しが出た。

 吉祥きっしょうである、と床についた男は思っている。万一許しが出なければ、別の手立てを考えねばならなかった。

 それにしてもなぜ先帝が日継の御子を定めたにも関わらず、すぐに即位をしないでいるのだろう。それは確かに自分にとっては都合の良い状態である。やはり帝に対して反旗を翻すというより、帝を継ぎうる立場として堂々と戦う方が心地よい。しかし、敢えて帝を立てようとしないというところに一抹いちまつの疑問がないとも言えない。

 そしてもう一つの疑問が穴穂部皇子の心に浮かんでくる。その間、なぜ先帝の皇后である穴穂部間人あなほべぼはしひと皇后ではなく豊御食炊屋姫が政を執っているのであろうか?以前自分が犯そうとした相手が政を執り、狩に行くにもその人の許しを得なければならぬ、という状況は心地の良いものではない。穴穂部間人皇后が政を取っていればかような思いもせずに済んだろうに・・・。

 穴穂部間人皇后がそれに相応しくない人物ならともかく、その賢さは宮の中でもつとに知られている。豊御食炊屋姫ほどの美貌はないが、厩戸王の母というだけあって、知恵と言うなら抜きんでている。知らぬうちにそのように整えられ、自分も諒としたのであるがなんとなく釈然としない。釈然としないのは、どちらの皇后にもその資格があるのに、議論にさえならなかったことである。

「まあ、良いわ」

 寝床でそう呟いたのは、明日になれば自分が帝になる一歩が踏み出せると信じているからであり、そうなれば豊御食炊屋姫が政を取っていた方が、都合が良い。

あのいけすかない叔父を誅し、豊御食炊屋姫も自分の物にすれば己の立場は強固なものになるに違いない。

 しかし、あのお方を皇后にするのには気をつけねばならぬかもしれないな、とその時の事を思い描いて皇子はひとり、にやついた。蘇我の大臣に近すぎる。大臣が生きている間は気を抜けば寝首を掻かれかねまい。

 請われれば考えぬこともないが、だが以前味わされた屈辱を想えばそう簡単には・・・、何とかあの人に乞わせることはできないか、とうつらうつらとしながら考えを巡らせていた時、その耳に尋常ならぬ叫び声が聞こえた。

「なにごとだ?」

 跳ね起きた穴穂部皇子の耳に、

「御子、邸が・・・邸が何者かに取り囲まれております」

 という悲痛な声が答えた。

「なんだと、ここを私の邸と知っての上か?」

 眠気が一挙に吹き飛んだ。慌てて、邸の階を駆け上がり辺りを見回すと兵が焚く火が煌々と邸を囲んでいる。

「何事だ、ここをどこだと心得ておる」

 取り囲んでいる者たちに向かって怒鳴ると、門の前に居た一人の男が、

「穴穂部皇子のお邸と存じております。吾が名は佐伯連丹経手さへきのむらじにふて、大臣の命により皇子を捕えに参りました」

 と答えた。耳を疑いつつ穴穂部皇子は、

「大臣にさような権能はない。すぐに囲いを解け」

 と叫び返した。だが、それを待っていたかのようにいらえがあった。

「大臣は豊御食炊屋姫の詔を奉じております。すみやかに出でなされ」

「馬鹿な・・・」

 呻くと、ふと狩の許しを得に行った時の豊御食炊屋姫の表情が脳裏に浮かんだ。

自分の請いに対して何も問わずに、宜しいでしょう、と言った時あの人は一瞬、奇妙な表情を見せた。それが嘲笑ちょうしょうだったのか、憐憫れんびんだったのか分からぬが、あの時この運命は決まったのだろう。狩に行きそこで叛乱を起こすことも、帝へと昇りつめる夢も一瞬のうちに消え去り、現実は赤々と燃える火に囲まれた無限の闇に包まれていた。

「く・・・」

 と歯を食いしばると転げるように駆け、楼から隣の建物へと飛び移ろうと身構えた時、どこからか、

「ちっ」

 と口を鳴らすような音が聞こえた。思わず音のする方を振り向いて姿勢を崩した御子の右肩に鋭い矢羽の音と共に箭が突き刺さった。体を崩していなければ確実に胸を貫いていたであろう。

「うわあ」

 という叫び声と共に、穴穂部皇子は楼の高欄こうらんを越え下へと落ちていった。


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