第23話


「どちらまで退しりぞかかれるお積りか?」

 萬らに守られながら、守屋と共に宮を出た中臣勝海の問いに、

「さて」

 と首を一つ捻ると、守屋は、

「難波まで行くか、阿都にするか」

 と独り言ちた。即座に

「難波は遠すぎますぞ。阿都の別業になされませ。しからずんばいざと言う時、共に兵を挙げられませぬ」

 と答えた勝海の言葉にそれまで伏せがちであった目を上げると、うむ、と力強く守屋は頷いた。

「それにしても、穴穂部皇子の腰抜けぶりには腹が立つ。まさかあの席に僧などを引き込むとは。中臣の大夫、許されよ。弟皇子が日継の御子となったと知って、とち狂ったのでござろう」

 自らが仲間に引き入れたはずの穴穂部皇子が僧などを連れてあの場にやって来たことに余ほど腹を立てたのであろう。滅多に人に謝ることのない守屋の科白せりふを萬は守屋の乗る馬の口を取りつつ聞いている。その馬とは厩戸王によって早死にを宣告されたばかりの馬であった。

 大餐の様子がどうだったのかまだつまびららかには分からぬが、主の思惑通りに事は進まなかったことは確かである。黙ったまま付き従っているその萬に向かって

「阿都についたら、萬よ、すぐに難波に赴き兵を集めて阿都に引き連れて来るのだ」

 と主は命じ、

「は」

 と萬は短く応じた。いよいよ戦は避けられぬらしい。

 更に進むと萬は辺りに目をらしはじめた。挙兵のことについては仮宮から守屋と共に出てきた押坂部史からあらましの事は聞いている。どうやら兵を動かしたのは平群の一族らしい。

 難波に出るにしても阿都に赴くとしても、何か起こるとしたら闇峠やみとうげのあたりであろう。まだ心配するには早いか、と思いつつも萬は警戒を怠らなかった。

 だが襲ってくるものはいなかった。やがて山科の拠に戻り一族を集め会議をするという勝海と別れ、守屋の一行は生駒いこまの山並みへと分け入ったのである。


「ご容態はいかがでございます」

 枕頭ちんとうで問いかけた馬子の囁きに、薄く目を開けると、

「力が湧かぬ・・・。それよりも、議はどうであったか」

 と帝は答えた。その体は先だってよりもますます縮んでいるように馬子には見えた。もう長くはないのかもしれぬ・・・、と浮かんだ思いを気色には見せずに

「残念ながら・・・」

 答えた馬子に、首を背けると、

「やはり、な。反対したのは大連か?」

 くぐもった声で帝は尋ねた。

「それと、中臣でございます。忌部いむべもあからさまではございませぬが・・・やはり反対かと」

「仕方あるまい。中臣、忌部はな。あの者たちはこの国の神を祀るものであるからの。吾らが仏の道を信じるようなことがあれば、自分たちの力が衰えると思っておるのだ。さようなことにはならぬと・・・常々言って聞かせてきたのだが」

 帝は弱弱しく呟くと咳き込んだ。

「いっそ、思い切って家出をなされたら」

 と馬子は勧めた。家出とは出家の事で、当時から物理的に家をでなくても仏の道に入ることはできるのであり、馬子もそうしている。

「それは・・・ならぬ」

 帝は首を振って大きく息をつくと

「議を尽くして皆が納得するまではできぬ。己ひとりの気持ちで国を割ってはならぬ」

 目を見開いて自分を見つめた帝の言葉に、

「さようでございますか」

 と頷いた馬子であったが、内心では、既に国は割れている、と考えている。その国を元の通り一つに戻すには、割れたもう片方を滅ぼすしかあるまい・・・。

 自分と通じている平群臣と談じて独断で兵を動かさせたのは馬子である。と言っても、後で言いつくろいのできるように、国元へ兵を帰させただけであったが、それと知った物部と中臣は船が沈むときの鼠のように慌てふためいて自らの領へと逃げていった。

 だがそれも馬子の考えのうちである。物部と中臣は都を中心に西と北へ分かれている。それが纏まっていれば厄介であるが、別々ならば打つ手があるに違いない。何よりも物部が宮の近辺にいることは目障りでしかたない。


 中臣一族の議論は割れた。

 磐余と勝海が戻って一族の主だった者を集め、物部と組んで蘇我を滅ぼす軍を説いたがそもそも中臣は神官である。軍を集めようにも人がそれほどいるわけではない。戦をするという勝海の主張に首を捻る者は少なくなかった。

 それだけにとどまらない。神官の一族であるからこそ、仏の道を憎むのと同じくらいに、帝にあからさまに反旗を翻すことに抵抗があった。

「ならば、どうしろというのだ」

 業を煮やした勝海が、自重を唱える長老たちに向かってえると、長老たちは目を見合わせた。そのうちの一人が、

「さて・・・。わが一族にはおやから伝えられたしゅがございます。一族の長として、相手に呪いをかけなされませ。もしあなたの言うことが正しければ、八百萬の神のご加護であきらかになりましょう」

 と勧めた。

「ならば、泊瀬部皇子と蘇我の長に・・・」

 と勝海は宣言したが、長老たちに再び

「泊瀬部皇子はお控えなされませ。仮にも日継の御子にと、帝がなされましたお方でございます。畏れ多くございましょう」

 と諫められ、ならば、と竹田皇子と馬子に呪いをかけることにした。

 呪いの儀式は二晩に渡った。だが儀式を終えて疲労困憊した勝海を待っていたのは、密かにこの二人の近くで探らせた者たちからの、

「お二人ともいつも通りのまま」

 であるという報せであった。

「まさか・・・」

 と項垂うなだれた勝海の心は揺れていた。

「仏の道を神々は認容なさると言うのか・・・」

 苦悩している勝海のもとに守屋から頻繁に遣いがやってきた。いざ、帝が崩御なさることがあれば共に挙兵し、穴穂部皇子を共にいただこうという誘いである。あれほどのしくじりを犯した穴穂部皇子をなお推挙するというのは、他に人が見当たらないからであろう。

「どうすべきか・・・」

 と悩み続けている勝海に、一族の知恵者が、

押坂人彦大兄皇子おしさかのひこひとのおほえのみこのもとへ参られませ。本来あのお方が日継の御子となってしかるべき。仏の道に迷うこともなく、皇統の正しいお姿を備えられております。あのお方のお考えを聞いて道をお選びになさるがよい」

 と進言した。

 押坂人彦大兄皇子は先の帝が最初の皇后である広姫ひろひめとの間にもうけた子である。だが、蘇我の出である豊御食炊屋姫が広姫薨御の後、立后皇してからというものの、次第に忘れ去られた存在になっていた。

「うむ・・・」

 蘇我の勢力を排除するという考えからすれば、穴穂部皇子よりも数段良い。何といっても血が繋がっていない。

「なせ、そのことに思い至らなかったのか」

 勝海は己の迂闊うかつさを悔やんだ。

 穴穂部皇子は、大臣に背いたとはいえそもそも蘇我の出の母親を持っている。政治的な見地から仏の道を許容する可能性は捨てきれない。守屋とて、蘇我への反発から仏の道を排斥しているが、蘇我を排除すればどう動くかは分からぬ。

 その上穴穂部皇子は現に議の場に僧を連れ込んだ。そしてその皇子を守屋は、未だに推しているではないか・・・。もし守屋が勝ったとしても穴穂部皇子が心をひるがしては何にもならぬ。

 中臣一族としては何よりも仏の道の排斥が重要である。ならば、疑いの残る穴穂部皇子よりも・・・。そう決断した勝海は守屋に相談することもなく、密かに押坂人彦大兄皇子の許を訪れたのであった。


 来目皇子は厩戸王の弟である。萬が初めて蘇我の邸を訪れた折はまだ指を口に咥えた童子であったが、すくすくと育った今は髪を結ったいたずら好きの少年になっていた。

 その皇子に仕えているものの中に赤檮いちひという舎人がいる。若くして剣・弓の遣い手でありながら、仏の道を深く信心している。そのため自らが使える来目皇子もさることながら、来目皇子の兄であり、仏の道を良く知る厩戸王に心を寄せている。萬が初めて蘇我の邸を訪れ厩戸王にまみえた時、弓で萬を脅してきたのがこの男であった。

 その赤檮が厩戸王に呼ばれたのは、守屋が阿都に去った四日後の夏の一日であった。

 暑い日だというのに、いつも通り正装した厩戸王は汗一つかかず邸にある藤棚の木陰で西の空に向かって仏に祈りを捧げていた。そして赤檮が着いたのを悟ると、静かに一礼をして祈りを終え、赤檮の方を振り向いた。

 その途端、脇を清涼な風が吹き抜けたように赤檮は感じた。

「御用がおありとか・・・」

 地面に這いつくばり、礼を取った赤檮を見遣ると、

「主上はもういけないようです」

 何でもないような口調で厩戸王は赤檮に語り掛けた。

「は・・・」

 言うべき言葉も見つからぬまま赤檮は頭を下げた。

「ですが、主上は未だに三宝に帰依なさることを躊躇われておられる。お気の毒な事です」

 そう言うと、心持ち首を上げて厩戸王は西の空を見た。

「臣下の者たちの意見が割れ、国の纏まりが失われることを患いておられる。それが主上の躊躇いのもと・・・。蘇我の大叔父も、そのお気持ちをおもんばかってか、なかなか決断なされません」

 呟くように言った言葉の裏に、物部守屋を西に、中臣一族を北へと分断しておきながら、一挙に手を下そうとしない蘇我馬子の優柔不断さに対する微かな非難の響きがある。

 敵の勢力を分断した以上、まず中臣に兵を向け滅ぼしてから、物部を誅するというのが定石なのだが、馬子には兵を中臣に向けた途端に物部に攻め込まれるという恐怖から抜け出せないでいた。

 かといって最初に物部の軍に敵対すれば、宮の中に潜んでいる蘇我への不満分子といつ、どうやって呼応するか知れたものでない。公然と不満を露わにしている穴穂部皇子は分かりやすいのだが、それ以外にも隙あらば自分に牙を向けてくる者がいないとも限らない。権力への反感と言うのはいつの世にもあり、とりわけ新参の者に対するそれは強い。馬子はそれを恐れ、結局守屋を自らの領へと取り逃がしたに過ぎなかった。

「このままでは主上は心を残したまま、あの世へと旅立つことになりましょう」

そう言うと、厩戸王は赤檮を差し招きその耳に押し殺したような声で囁いた。

は・・・・いざという時に私はこの国に軍荼利明王ぐんだりみょうおうが必要だと考えています」

「軍荼利明王でございますか?」

 赤檮は首を傾げた。聞いたことのない名である。

「そうです。仏の道を切り開くためにあらゆる魔を払う、そんな明王です」

 そう言うと厩戸王は再び、目を西の空に転じた。

「中臣勝海が押坂人彦大兄皇子のところを今、訪れておられます。仏の道を妨げる算段をしておられるのでしょう。あの者は竹田皇子と大叔父に呪いをかけた。それがうまく行かずに他の道を探しているのです」

 どうして、それを知ったのかと赤檮は問わない。この御方は、何でも知っておられる、と信じている。

「では・・・私に?」

 厩戸王は答えない。だが暫くすると、

「どうやら時が造る魔というものもあるらしい。中臣は忠臣であったが、この時に至って帝のお側に仕える者に向かって呪を使うとは・・・。こういう時のために軍荼利明王のような御方もまた必要だったのでしょう。その故を伝えるため伝えが残った、私はそう考えています」

 と独り言のように呟いた。

 それを聞くと赤檮は頷くなり、すっと姿を消した。

 その夜、赤檮の姿は押坂人彦大兄皇子の邸、水派宮みまたのみやの近くにある。ゆらりと揺れる松明が宮から現れると、赤檮は目を凝らした。その松明に照らされた姿が神職の装束であることを確かめると、

「ちっ」

 と口を鳴らした。その音に気付いたのか火に揺れる影がこちらの方を覗き見るような動きをした。

 その影に赤檮は物も言わずに飛び掛かると剣を振り下ろした。

 闇の中から勝海の断末の悲鳴が響き渡った。

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