第22話


 その穴穂部皇子は邸で一人、煩悶はんもんしていた。

 実弟である泊瀬部皇子が日継の御子に指名されるなどと夢にも思ってはいなかったのである。世評の通り竹田皇子が日継の御子の本命であろうというのが穴穂部皇子の見立てであった。

 だが・・・。弟が、それも母を同じくする実の弟が日継の御子に指名されたという事実は、血の遠い者が指名されたよりも遥かに強い衝撃を穴穂部皇子に与えた。

「これは・・・」

 自分が物部守屋をたのんだために蘇我と対峙たいじしたことに起因するのであろうか?もし、馬子に寄り添っていたならば自分が指名されたのであろうか?そう考えると眩暈めまいを覚えるほどの後悔が押し寄せてくる。

 だが自分が物部に近づいたのは先の帝、敏達天皇が崩御なされたとき馬子が自分を一顧だにせず、橘豊日命を押し頂いたからである。

 せめて・・・。

 あの時、次の帝の候補としてでも名前が上がればこのような道に突き進むことにならなかったであろうに、と考えると馬子への恨みも新たになる。あの時次の次をお待ちになれば、とでも馬子が囁いていてくれていたならば・・・。

 そう思いつつ、皇子は宙を見据える。その視線の先に定まるものは、ない。


 実母である小姉君も蘇我の出であるが、今の帝、自分の異母兄になる橘豊日命の母、堅塩姫も蘇我の出で二人は姉妹である。それまでは同じ蘇我でも姉と妹との扱いの違いか、と考えていたが、自分を等閑なおざりにして同母の弟へと帝位が移るとなれば、敢えて自分を外すというのが馬子の意思であるとしか思えぬ。

 穴穂部皇子が皇位を欲していることを馬子が知らぬ筈はない。

 それに・・・と穴穂部皇子は更に思いを深める。

 弟とて、特に仏道への傾倒をしているわけではない。それなのに・・・なぜ?

だが、もし自分も決して仏の道を拒んでいる者でないことを示せば・・・大臣の心は変わるかもしれないと心は惑う。なんと言っても泊瀬部皇子は自分より年下ではないか。経験も少ない。それよりも自分の方が遥かに帝に相応ふさわしい筈だ、と彷徨う考えはやがて同じ所へと行きつく。


 穴穂部皇子にとって仏の道はさしたる問題ではなかった。皇祖は皇祖として祀ればよい。仏は仏でよいではないか、程度の思いである。

「ならば・・・」

 以前母の小姉君に、

「一度、その仏の道とやらがどんなものか、伺いたいものでございます」

 とい、引き合わされた僧のことを穴穂部皇子は思い起こしている。

「あの僧を連れていき、大臣がどう出るかみてみたいものだ。もしや、まだ機会は失われてはおらぬのではないか。もしや・・・弟を指名したことで大臣はこちらへ来いと誘っておられるのではないか。望みが絶たれたわけではないかもしれぬ」

 独りつと穴穂部皇子はさっそく付き人を呼び、その僧へと遣いを出した。そしてその少し後、皇子のもとに着いた守屋の遣いは

「既に皇子はおやすみになられておられます」

 と追い返されたのである。


 翌朝、巳の刻に宮に臣下たちがぞろぞろと集まって来た。その顔色はさまざまである。一睡もせずに議を闘わせ覚めやらぬ興奮を面に露わにしている者、議論に疲れ切りあくびを隠し切れないもの、どこか吹っ切れたように晴れ晴れとした顔をしている者・・・。

 御座ぎょざは空いたままである。守屋はその御座に帝がおわすかのようにひたと視線を据えて、口を真一文字に結んでいた。席に各々が着き最後に竹田皇子が現れると、

「主上には昨日の事、お伝えいたしてございます。では、思うことがございます方がおられれば」

 と宣言した。

「では・・・」

 おもむろに立ち上がった中臣勝海が礼をすると、

「この国には国の神がおわします。その国の神とは天照大御神より始まり、長く伝わり今の帝に連なる神、それにそむいて異国の神を敬うなどというのは、祖をないがしろにするも同然。古来、さような事を聞いたことはございませぬ。臣は帝を通してその祖を崇めるのが当然のこと。三宝を敬うというのはそれにたがうことでございます。例え帝のお望みということがまことであろうと、それは何者かにたぶらかされた結果に相違ございませぬ。忠実な臣としては、病で気を弱くされておられる帝にそのような事を吹き込んだ者を許せぬと考えております」

 と一気に言い切った。守屋やそれに賛同する者たちが床を叩き、宮はどよめいた。

「なれど・・・」

 甲高い声が響いた。蘇我馬子である。すっと、座から立ち上がると、

「それは帝ご自身のみことのりに相違ない。誑かされたなどと申されておるが、どこに証左しょうさがあるのか。それならばそなた自身、帝が恢復かいふくなされたおりに、帝ご自身にお尋ねになるがよい。帝は誑かされておられるのですかとお尋ねなさるがよろしかろう。この馬子も同道致そう。臣の意見は、吾のみならずここにおられる皇子たちをも、いや帝そのものを難ずるものぞ」

 次第に激した声音で一気に言って大臣はあたりをゆっくりと見回した。しんとして音もない。それを確かめると馬子は声色こわいろを改め、勝海を見詰めつつ、

「詔が出た以上それに従い、助けることこそが臣のあるべき道ではございませぬか。臣はあたかもこれが陰謀のようなことをおっしゃるが、一体だれがそのようなことを致しましょう。私とて、帝の祖を敬う気持ちには何の変りもございませぬ。しかし、それと仏の道は別のもの。唐、三韓ともに皇帝、国王がおられるにかかわらず、仏の道を取り入れ、それを以って政をしている。ただひとり、この国が仏を信じないのではそうした国々との交わりにも支障がございましょう。帝ご自身が望まれることを臣下がどうして拒むことなど許されましょうか」

 と滔々とうとうと弁じた。馬子の弁に対しても賛同する者が床を叩いた。だが、

戯言ざれごとを申すな」

 一心に見つめていた御座から視線を逸らした守屋がのそりと立ち上がって、

「それは我が国の祖が、蕃国の神に劣っていると申し立てているのと同じである。不敬であるぞ」

 と喚くと、再び辺りは静まり返った。坐にいる者たち誰も、明確な判断基準を持っているわけではない。帝が仏の道を望むならば、それはそれで従うべきだと思いつつ、国つ神がそれに劣るものかと問われれば、そうではない、と思う者が大半である。

 それに加えて、話は宗教の話に留まらず、物部と蘇我の対立であることは明白であった。

 大半のものにとってはもはや、外からもたらされた教えと今までの教えとどちらを取るかというより、物部と蘇我のどちらを選ぶかという選択という点が焦点であった。あからさまにどちらかを支持すれば、敗れた時の肩身が狭くなる。いや、この情勢では肩身が狭くなるというのに留まらぬであろう。命を懸けねばならぬかもしれぬ・・・。

 しんと鎮まった雰囲気の中、戸が音を立てて開いた。緊張しきっていた皆が視線を一斉にそちらに向けた。戸の後ろに立っていたのは穴穂部皇子である。だが、一人ではない。その横に剃髪した若い僧が並んで立っていた。

 入ってきた二人は、自分たちに投げかけられた視線に一瞬戸惑ったようだったが、穴穂部皇子は胸をらすと、朗々とした声で

遅参ちさんして申し訳ございませぬ。少々、手間取ってしまいまして。ここにおわされるのは豊国法師とよくにのほふしと申されます。私も少し仏の道とやらがどういうものなのか、知りたくありまして、この御方に話を聞いたことがございます。その中にはなるほどと頷かされることもありました。ついては皆さまのお考えにも資するところがあるのではないかと、連れて参ったのでございます」

 と言うと、自らの座に法師を連れて腰を下ろしたのである。

 呆気に取られたようにその姿を見ている者たちの中で、一人守屋だけは物凄い目で穴穂部皇子を睨んできた。馬子と言えば、ちらりと守屋に目を遣って、わずかににやりとしただけで、あとは先ほどと変わる様子もなく無表情で皇子たちの座る席を眺めている。

 穴穂部皇子はその様子を素早く見て取ると懸命に素知らぬ顔を作り黙って座った。

 守屋が怒るであろうことは予め想像がついていた。気になったのは馬子の様子である。敢えて仏の道に反対してきた自分が僧を連れてきたことで、この議が三宝を帝が敬うという方向に寄与することは疑いない。だから、馬子から自分に向けた何らかのきざしがあるだろうと期待していたのだが、馬子は素知らぬ顔のままである。それどころか自分のほうを見ようともしない。

 一方の守屋は怒りに満ちた視線を送ってくる。失敗った、と思ったが、それを表情に表わすこともできなかった。乾いた唇を舐め、居心地の悪いのをこらえていると、一人の男が慌てたように入って来て守屋のもとへと駆け寄ったのが見えた。

「あれは、押坂部史おしさかべのふびとではないか」

 穴穂部皇子も守屋の邸で時折見たことのある顔である。後に押坂部は物部の一味として毛屎けくそなどと言う名を着せられることになる。

 その押坂部の言葉に、守屋が自分の方を睨んでくるのを止め真剣に耳を傾けているので、ちらりちらりと目を遣っていると、いきなり守屋が立ち上がったので一瞬肝を冷やした。

「どうなされた」

 壇の上にいた竹田皇子も慌てて身をよじり、その拍子に座っていた座が倒れて大きな音がした。彼もまた守屋が自分を襲ってくるのではないかと恐れたかのようである。

 だが守屋は立ったまま、

「議はまたとして頂きたい。どうやら外にわしの命を狙って策動している者があるらしい。すぐさま退しりぞくことといたす」

 と言うなり、返事も聞かずにさっさと立ち去ったのである。近くに座っていた中臣の一族も守屋の後を追った。

 再びあっけにとられたようにその姿を見送った者たちは、やがてひそひそと話を始めた。

「このままでは済むまい。さて、どう身を処するべきか」

 と尋ねあう声は低く、陰鬱であった。

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