第20話
気分が勝れぬという理由で帝がおでましにならないと聞き、新嘗の
やはり病状が優れないのであろうか?と誰もが考えた。本当の病状を知る者は大臣、厩戸王、竹田皇子などごくわずかな者たちに限られている。
新嘗そのものの儀式は
帝がお出ましにならぬ餐はどこか気の抜けたものになりかけた。
だが突如その帝の意向として、
「帝は日継の御子として泊瀬部皇子をお決めになられました。日継の皇子を決めてこそ安心してご養生なされることができる、とのことでございます。なお、ご養生に当たっては、
淡々と竹田皇子が読み上げると場は俄かに騒然となった。三宝とは、仏・法・僧の三つを指す言葉であり、平たく言えば仏教の事である。
最初の言葉で柏に盛られた飯を、憤然とした面持ちで投げ捨てたのは穴穂部皇子であった。まさか、このような形で日継の御子が公にされるとは思ってもいなかったのである。守屋はまさか泊瀬部皇子の名を聞こうとは思っておらず、意味を捕えかねて呆然としていた。
だが、後の方の言葉で守屋と中臣の一族は顔を朱に染めて立ち上がった。
「三方に帰依するおつもりとは・・・まことの事か」
竹田皇子に詰め寄ったのは守屋である。
「帝ご自身の口からお伺いしたい」
「と申されましても」
予めそうした苦情を見越していたのか、竹田皇子は淡々と答えた。
「主上は先ほど申された通り、ご容態が勝れませぬ。大連は帝のお体を
むむ、っと唸った守屋に、竹田皇子は浴びせかけるように、
「それに主上は皆さまに議論をなさったうえでお決めになると申されておられるのです。ならば先ずは皆さまでお話しあいなさるのが筋ではございませぬか」
と続けた。
「うぬ」
歯をぎりぎりと鳴らしつつ守屋は、
「ならば餐の中途であるが、談合したい者たちがいる。一旦、引き上げて者共と相談したい」
と
「どうぞ、お気のすむまで。但し明朝、
と答えた竹田皇子に、
「それまでは決して諾否を決めぬとお誓いありたい」
更に守屋は言い募ったが、竹田皇子からあっさりと
「わかりました。諸卿の意見を聞くというのは帝のご意思でございます。決してそのようなことは致しませぬ」
という答えを得ると大人しく引き下がざるを得なかった。
そんな出来事が中で起きているとは知らず、萬は新嘗の儀のために
守屋を待っているわけだが、守屋にしても新嘗が初めてというわけではなく式の次第は
陽は落ち掛けてはいたが、風もなく温かな
餐は始まったばかりであり、これから夜を徹して行われる予定である。
新嘗の間は立って構えていた萬も餐が始まると草の上に腰を下ろし中で餐の執り行われている建物をぼんやりと眺めていたのだが、その時ふと自分を見つめてくる視線を感じた。
振り向くと、眼差しの先に綾織の装束を纏った貴人がいた。その顔が昔、馬子の邸で出会った子供の顔と重なり、寺で儀を司っていた姿とまじわり、あっと小声で叫ぶと、萬は膝をついて拝礼した。あの時の少年は、顔はそのままに、すらりとした体形の若者になっていた。
「お久しぶりですね」
柔らかい声で声をかけてきた若者に、更に深く頭を下げ、
「厩戸王におかれては、ご健勝のご様子・・・」
と萬は
「この馬は大連の馬ですか」
ときさくに尋ねてきた。
「さようにございます」
「なるほど、良い馬を飼っていなさる」
と厩戸王がその
「名前が名前なので、私も馬に興味があります」
とはにかんだように厩戸王は言うと、
「ですが、この馬はあまり長生きできぬ。哀れですね」
と呟いた。その言葉に驚いて目を上げた萬は、死を告げた馬に対して何でもないかのように、
「よしよし。だが、お前は次の世では
と馬の首を撫でると馬は気持ちよさげに
「大連は中ですか」
と厩戸王は尋ねた。
「まだでございます」
奇怪な気持ちを抱きながら萬は答えた。餐は夜を徹して行うと聞いている。戻るとしても早くて翌日、暁の頃と相手が知らぬはずがない。
「そうですか・・・」
厩戸王は萬がさっきまで見つめていた建物の方に視線を遣った。
「それはまた・・・」
「夜が明けるまでここにおれと主から申し付かっております」
萬が告げると若者はうん、と頷いた。
「・・・御子に一つ尋ねたいことがございます」
萬は目の前の若者に語り掛けた。普通なら許されぬことであるが、この人なら大丈夫だろうと思ったのである。果たして、
「なんなりと」
と若者は微笑した。
「わが主は帝に仕え、すでに四十と五年、常に帝とその祖の御霊を敬ってまいりました。しかし、残念なことにその衷心は必ずしも帝に伝わっていないようでございます。なぜでございましょう」
若者は首を傾げた。
「はて・・・」
若者は遠くの空を見るように視線を流すと、
「帝とその祖の御霊を敬うことは当然のこと、ですが大連のお立場ともなれば、それだけで足りましょうか」
と答えた。
「は?」
この世は帝を中心として、その力を軸にして敬うことをもって成立しているのだと萬は考えている。自分が主を敬う事と主が帝やその御霊を敬うことは繋がって、その頂点にある帝を敬うことになるのだという考え方が自然に身についている。
それを帝に近しい人が、それだけなのか、と問う意味が分からなかった。
「足りない・・・?」
「足りないところを補うのが仏の道です」
そう言うと若者は微笑した。
「あなたと最初にお会いした時の事、私は良く覚えていますよ。その時に、慈悲という言葉を教えたでしょう?」
「良く覚えております」
「それは今の御代に足りないところの一つですよ」
と若者は萬を諭すように言った。
「わが主にはそれに欠けていると・・・」
「慈悲というのは互いに持ち合い、満ち溢れるものでなくてはなりません。誰かが持てばそれで足りるというものではないのです。皆がそれを持つようにせねばならぬ。慈悲の心のない者は傲慢です。慈悲を
「ではその心が仏を信じている大臣にはあるというのでしょうか」
萬の問いに、
「さて・・・」
と若者は空を見上げた。
「それはわかりませぬ。慈悲とは生き方によって自ずと溢れるもの・・・。ただ大臣は、慈悲というものがあり、その大切さを仏の道によって知っておられるという点では一歩進んでおられる・・・。とは言っても仏の道を知っているから慈悲があるというものではなく、また仏の道を知らぬから慈悲がないというものでもないのでしょう。日が照らせば、あるものははっきりと分かるが、日が照らさなくともあるものはある。仏の道とは日の光のような物ですよ」
「では慈悲があればこの世はおさまりましょうか?争いはなくなりましょうか」
萬がさらに問うと、
「慈悲とは許す心が基。それがなければこの世はうまくおさまりますまい」
と厩戸王は答えると少し暗い調子で、
「ですが、慈悲の心を以っても許せないものが一つございます。それは慈悲を否定する心。慈悲を笑い、慈悲の心につけこみ、慈悲を覆そうとするもの。慈悲が遍くためにはそうした障りがあります。世を治めるためにはそれは魔として取り除かねばなりませぬ。でなければ世はおさまらぬことも確か。たしかあの時もそう申し上げたはず」
と言葉を紡いだ。そういえば、初めてこの人と会ったあの時もそんなことを聞いたような気がする。
「ならば更にお尋ねしたい」
萬の言葉に若者は僅かに首を傾げて促した。
「許す心を持たないものを許さぬ、それは良いのでしょうか。。それは本当に許すということにならぬのではございませぬか?」
萬の問いに、
「なるほど」
と若者は微笑んだ。
「良い問いですね」
そういうと首に手を当て、
「誰もがそれで躓く。慈悲を持つものが慈悲を失ってよいものか、とね。
ですが・・・それは
と諭すように言った。
「直観、ですか・・・?」
「そうです、ただひたすら物事を正しく見、深く考える。それによって生まれてくる力です」
首を捻っている萬に向かって微笑みかけると、ふと途方にくれたかのように、そろそろ去ねば、と呟いた厩戸王に向かって萬は、
「最後にもう一つだけ・・・」
と頼んだ。一瞬、眉を顰めた厩戸王は、しかし萬の声の調子に縋るような響きを聞き取ったのか、
「なんでしょうか」
と向き直った。
「以前、慈悲ということをお聞きしました時、ふと思い出したことがございます」
幼少の時、親が死んだ鷹の巣から一羽の雛を谷に投げ捨て、もう一羽だけを飼ったことを短く話し、
「それは、私に慈悲の心というものがないということでしょうか?」
と厩戸王の顔を真剣な目で見つめた。目の前の武骨な男が思いもよらず繊細な心を露わにしたのに驚いたのか、
「それはかわいそうなことをなされましたね」
と呟いた厩戸王は暫く
「ですが、あなたの行いによって死ぬ筈だったもう一羽の雛は助かったのだと考えることもできましょう・・・」
と続けた。
「大切なのは、雛を捨てた時あなたがどう思われたかということです」
と言うと、唐突に萬の目を覗き込んだ。その瞳が珠のように美しく、思わず後ずさって
「何やら、口の中が苦くなりました」
正直に答えた萬に厩戸王は微笑んだ。
「そしてあなたは今でもそのことを気にかけ、悔やんでおられる。だからこそ、私に尋ねなされた」
そう言うと、萬の肩に軽く手をかけた。
「それが慈悲の心の種ですよ」
皇子が肩に触れた掌が温かかった。
「私はもう行かねば・・・」
そう萬の耳に優しく囁くと肩から手を放し、では、と呟いて厩戸王が袖を翻し去っていった。その姿を萬はじっと見送っていたが、その時突然、本来開くべきでない殿の戸が大きく開くとそこからわらわらと人の群れが湧くように出てきた。その中に主がいることを目敏く認めると萬は駆け寄った。
「いかがなされたました?」
尋ねた萬に、唇を真一文字に結んでいた守屋は、
「緊要な事態が出来した。中臣の族を邸に招いて相談せねばならぬ。お前は一足先に馬で邸に戻り、準備をさせよ」
と命じたのである。その言葉にはっと息を呑み、先ほど話していたばかりの若者を萬は探したが、その姿は既にどこにもなかった。
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