第19話
そののち、穴穂部皇子が殯宮に入ることは遂にかなわかった。帝は皇族と
帝は三輪逆が謀反を企んだという穴穂部皇子の主張を信じなかったが罰を与えることもしなかった。逆が皇子の望みを
それに伴って守屋たちの計画も頓挫した。
三輪の死に心を痛めた帝はその心が体にも影響したのであろうか、やがて先帝と同じ病に罹った。そのまま病の床についたため、その年は代替わりであるにも関わらず新たな帝を祝うべき大嘗が執り行われることはなかった。帝の命は縮まり、結果として守屋たちは時を限られてしまうことになる。
年が改まって春を過ぎると帝の容態はやや回復したが、依然として体から熱っぽさはひかなかった。その間中、馬子はせっせと帝の許を訪れ仏の道に帰依することを説き、一方で守屋は帝が崩御した時の後の事を、志を共にする者たちと語らった。
守屋は以前と違って、帝の死を仮定としてではなく真剣に捉えていた。
帝の病状が持ち直したとして、改めて新嘗の祭りを行うことが発表された。それを望んだのは帝自身である。
「まことに宜しいのですか?まだお体が優れぬというのに」
枕元で問うたのは馬子である。
「良い、このままでは新嘗も行えなかった帝との誹りを受けよう。せめて・・・」
咳き込んだ帝の背を馬子がさすった。
「・・・厩戸王を呼べ。あの者に次第を考えさせる」
帝の言葉に馬子は頷いた。息子である厩戸王と帝が二人きりで話したのは僅か一日の事である。その時、厩戸王はまだ十と四歳・・・。
その年若の皇子の企みに、守屋たちは思わぬ形で引っかかることになる。
「そうなさるのが宜しいと思いますよ」
馬子を前にして説いているのは厩戸王であった。帝の寝所の内である。帝は床に臥し、目を閉じたまま息子の話を聞いている。その頬は削げ落ち深い皴が刻まれている。
「しかし・・・。新嘗は代々この国の神を祀るための大切な行事、その行事に連なる席でそのような挑発めいたことを・・・さすがに、畏まるべきではございませぬか」
と馬子はためらいがちに反駁した。本来、機に乗じて
「誰もがそう思うでしょう。だからこそ良いのです。相手は不意を突かれて動揺するでしょう。しかしもはや今までのようにあいまいにしておく時ではございませぬ。帝のお立場をはっきりさせておかねばならぬ」
と説いた息子の言葉に帝は目を瞑ったまま大きく一つ頷くと、目を見開いて馬子を見遣った。
「朕の命もあとどれだけ持つか分からぬのだ」
まさかさような、とすぐさま否定した馬子であったが、それもありうることだ、考えておかねばならぬ、と頭の中では計算している。
「そして同時に日継は
厩戸王は強い口調で続けた。
「はぁ・・・」
と馬子は首を傾げた。その人選が馬子の躊躇いを増している。泊瀬部皇子は馬子にとっては甥であり穴穂部皇子の実の弟である。兄弟の仲はあまり良くないとは聞いているが、馬子の本心としては竹田皇子が望ましい。そして帝にとってはこの厩戸王本人こそが意中の人間であろう。馬子としてはその実力に異存はないが厩戸王は
だからどちらでもない泊瀬部皇子なのか?
或る意味であまりに絶妙なのである。蘇我が一番望む候補ではない。と言って今の帝の意中の人でもない、そして何よりも物部が推す穴穂部皇子の弟であり泊瀬部皇子を推すという事は、すなわち穴穂部皇子にはもう目はないと告げる意味がある。
馬子も実の甥である泊瀬部皇子を強く否定することもできない。血筋の内で馬子がどうしても困るのは穴穂部皇子だけである。あの皇子は物部と繋がっている。
「しかし・・・それでよろしいのでしょうか」
と馬子は帝とその息子を交互に見た。
「もちろんです」
厩戸王は力強く頷いた。
「竹田皇子も納得しておられる。あのお方は賢くていらっしゃる。ご自分が日継とならぬ方が世のため、とおっしゃられて辞退なされました」
「はあ」
帝の方を見遣ってから、その表情が変わらぬとみると馬子は目を伏せた。尋ねた意図はそこではない。厩戸王を日継としなくてよいのか、と尋ねたつもりである。
だが、厩戸王の答えは明確であった。守屋と馬子の対立で既に国は揺らいでいる。その上、こちら側で対立の火種を抱えることは決してならぬ、という強い意思である。
「だが・・・。物部は戦上手、万一その場で反旗を翻しでもしたら、どうなりましょう」
馬子は話の焦点を逸らした。
「それは心配ございませぬ。もしもこちらの考えが漏れたりすればその前に備えておくでしょうが、突然の事に対応できるほどあのお方たちは賢くも俊敏でもない。そのことは大臣ご自身も
厩戸王は微笑んだ。
「大切なのは帝が仏の道に帰依するという意志を見せること、そして次の帝は自分たちの思い通りにはならぬこと、その二つを同時に突きつけることでございます。
もちろんその後、
「なるほど・・・」
馬子はうなずいては見せたが、眼差しはまだ宙を彷徨っている。物部を新嘗の場で挑発することの是非をまだ悩んでいるようであった。
とにかく恐るべきは物部の軍事力である。他のことはさておき、馬子にはそれだけが恐ろしい。真綿で首を占めるようにして、物部の力を削いできたが、その一点だけは物部の方が優れているという事実は今なお変わらない。ことの重みに黙りこんだ馬子にちらりと視線を遣ると厩戸王は言葉を継いだ。
「仏の道については、諸卿の意見を聞くという形にせねばなりませぬ。ですがそう言う事によって、彼らはそれが決まった事実だとは思わない。説得しにかかるでしょう。一方日継については、これは帝のお決めになること、説得にかかろうとするものと、決められたことに憤激する者、その境目であちらも一枚岩で動くこともなりますまい」
「さよう・・・でしょうか」
そう答えながら尚も躊躇いを見せる馬子に、帝が辛そうに体を起こすと、
「大臣よ、そなたが朕に仏の道を示したのだ。仏の道を余に説いたそちが、躊躇ってどうする」
と諭した。
「承知いたしました」
帝の言葉で漸く臍を固めたか、馬子が面を上げ頷いた。
「ご心配なさいますな。仏は必ずや我々をお助けくださいましょう」
厩戸王はそう言うとゆっくりと馬子の肩に手を掛けた。
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