第18話
「逆は海石榴の後宮に隠れているとの報せがあった。さっそく攻めるぞ」
守屋が大声で兵たちに命じた。海石榴にある後宮とは豊御食炊屋姫の宅である。
どうやら海石榴は萬にとって巡りあわせの地であるらしい。そこは以前尼たちが笞で打たれた所である。そのことをふと思い浮かべ、萬は口に苦いものが湧き出てくる思いがした。小競り合いであろうと重い争いであろうと、主は常に明瞭に指示を出す。普段ならそれが頼もしいし、心地が良いのだが、この時の萬には主の大声が
三輪逆には取り立てて縁はない。しかし先の帝が守屋や馬子と話すときは厳しい表情であったのに、三輪君と話すときは常に穏やかな表情であるのを見知っている。さぞかし、信頼が篤いのであろう。篤実な御方なのだと、素直に思っていた。もし、穴穂部皇子が仰ったことが事実なら、逆の言動は不遜とも言えなくないが、ややもすると萬の疑いの目は穴穂部皇子の方に向かっていく。あの夜の会話を聞いた限り、穴穂部皇子が何やら企みを携えて殯宮を訪れたとしか思えぬ。
冴えない表情の萬を見て、
「どうしたのだ、萬」
ぎょろりと主が睨んだ。
「いえ」
短く返事を返した萬の体に主は覆いかぶさるように身を寄せて、
「お前は邸の裏を固めよ。決して逃すでないぞ。みつけたならば必ず殺せよ。さもなければ物部の族に災いを招かぬとも限らぬ」
と囁いた。
逆がどこまで、何を知っているのかは守屋には分からなかったが下手をすれば逆の口から穴穂部皇子に対する
「御心のままに」
と返事をしたものの萬の心は更に重く沈んだ。できれば相対したくないものだと考えていたが、えてしてそうした時ほど思いの外になるものである。
裏門を固めていた萬は、その門が突然開いて男が転びでてくるのを見て目を瞠った。なりは只の家人のような衣装をつけているが確かに見知った三輪君の顔である。その男は萬たちが裏門を固めていると見て取ると、顔を
「許されよ」
と一言心の
「よくやった」
と守屋は肩を叩いて誉めた。誉め言葉に面を上げ、礼を述べたが萬の心は沈みきっている。
それまでも小さな諍いに巻き込まれて弓を使ったことはあったが、人を殺さねばならぬようなほどの争いはなく、弓を射て相手に傷を負わせればそれで
だが、今度に限って主は、明確に「殺せよ」と命じたのである。生け捕りにするかとも一瞬考えたが、それをすれば萬が主の命に反するばかりでなく逆は更にひどい仕打ちに晒され、死の上に恥まで受ける。あの馬子でさえ三輪君を討つことに賛成している以上、とても避けることは得まい。
馬子が心変わりをしていたことなど萬は知りようもなかった。
それまでは主を守るためであれば、人を殺すことなど歯牙にも掛けぬと思っていたのであるが・・・。
もしも戦場で主を守るために向かってくる敵を撃ったのであれば、こんな思いはしなかったであろうと萬は考える。あの時、三輪君は向かってきたのではない。逃げようとしたのである。それに向かって矢を放った自分の所業を萬は持て余していた。
守屋の軍を池辺の宮で待っていたのは穴穂部皇子と蘇我馬子であった。
「逆を討ち取りましたぞ」
という守屋の叫び声を聞くと穴穂部皇子は立ち上がり、
「さすが物部の大連よ」
と満面の笑みを浮かべて迎えた。その横で俯いたまま馬子は、
「どのような・・・御最期であられたか」
と尋ねた。
「変装をして逃げるところを弓で射殺したのだ」
と守屋が答えた。
「三輪は忠臣であった。先の帝がどれほど慈しんでいたか、知らぬわけではござるまい。それを抗弁も聞かずに無残に仕留めるとはなんという世の乱れよ」
ぼそぼそと呟いた馬子に守屋は詰め寄ると、
「何を言う。大臣も一度は賛成なされたではないか。それを後になってぐずぐずと・・・小心者の言うことなど聞いてはおらぬわ」
と面罵した。馬子はそれに応じることもせず、守屋に付き添っていた萬を嫌な目つきで見た。馬子の言葉に萬の心は動揺した。馬子は逆を討つことに反対していなかったではないか?何があったのであろうか。ならば逆を見逃すことができたのかもしれぬ。いや、しかしそれでは守屋の立場が・・・。千々に乱れかけた萬の心を知ってか知らずか、馬子は突き刺すように
「お前が討ったのであろう」
と尋ねた。萬は黙っていた。
「お前の体からは死者の気が湧いておる。寺を焼いたばかりでなく、帝の忠臣を殺すとは・・・火つけ、殺し、盗み・・・。大罪ばかりだ。後生ではさぞかし仏の罰を受けようぞ」
と唾を吐いた。それを聞き、
「何を言うか。吾が家臣は帝に連なる方々に常に忠実な僕である。わかっておるぞ。寺を焼こうとした逆を大臣は恨んでいたのであろう?だからこそ逆を討つのを良しとしたのであろうが。ならば大臣はその罪をどう贖うおつもりか。今更お主も了とした逆臣を討ったものを嘲るとはなんという見当違い。それでも大臣という重職を担う者か」
守屋が憤激して毒づくと、馬子は視線を落とした。それもまた事実だったのである。
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