第17話

「皇子はお帰りになられたようでございます。入りますぞ」

 低い、良く通る声がした。

 その頼もしげな響きに、俯いていた女が貌を上げた。ほの白い面に漂わせていたどこか憂鬱そうな面差しが、部屋の隅に置かれたわずかな燭の明かりにさえ、それとわかる程に明るく変化した。

「あのお方だけは・・・」

 愁眉しゅうびを開いた女の言葉に戸を開けて入って来た逆は重々し気に頷いた。逆は先帝が薨去せられた時、穴穂部皇子が宮に押し込もうとしたことがあって以来、この皇子に信をおいていない。

 殯宮を警固するにあたって逆が女に頼まれたことは、万が一穴穂部皇子が訪ねてくるようなことがあっても決して入れないでくれというものであった。

「何やら私を見る目つきが、とりわけ帝がお亡くなりになられた後は・・・」

 と女は言い、

「もしもの事があったなら、とりわけお亡くなりになられた帝の目の前で・・・」

 と言い難そうに続けたのである。女として男から憧れの眼差しを向けられることに特に嫌悪はない。自分に向けられるそうした視線は何も穴穂部皇子からだけではなかった。

 しかし・・・。このところ時折、殯宮から外に出るとき、穴穂部皇子が自分に向けてくる視線はそうした憧れの感情だけでは説明しきれないものがあると女は感じていた。そのことを女は殯宮を守る逆にだけ告げ、帝にも伯父の大臣にも告げていなかった。

 昔、皇后へと昇る前に、穴穂部皇子から恋心を告げられたことを女は忘れていない。いや、あの時、心が動いたのも事実である。だが、大臣に宮へ上がれと命じられた時、女はそのことを心のうちに押し隠し、一生を帝へ捧げると心に決めたのである。

 しかし帝がお隠れになったあと男は再び昔のような目つきで女を見るようになった。あれから十と五の年が過ぎているというのに・・・。

 昔懐かしい感情が蘇ったのは紛れもない事実である。だが、いくら独り身になったからと言って、女はもはや昔のように心を動かすことはなかった。十と五の年月と、皇后という重責は女にその分別を植え付けさせていた。

 と言って、密かに女だけに垣間見せる男の思いを信頼できる男以外、他の人に告げるつもりはなかった。万に一つ、それが自分の思い過ごしであるということもあろう。そしてそのような噂が立つことで男の立場が悪くなることを女は重々承知していたのである。

「承知いたしました」

 との言葉通り、三輪逆は穴穂部皇子の訪問にあたっては戸を閉ざした。皇子にいくらその理由を問われても答えなかった。それが女自身の拒否であるとあからさまに言えば穴穂部皇子の威儀いぎにかかわる。皇子が姫の気持ちを察して諦めてくれるのが一番である。姫の御心みこころもそこにあるのだろう、と逆は十分理解していたのである。

「そなたは帝が生きていらっしゃったときから、本当に忠義をつくしてくれます」

 と視線をまっすぐ向けて礼を述べた女の表情に逆は黙って頭を下げた。年は父親と娘ほどの差がある。仏の道を信じるという事に些かの疑問はあるものの、逆には先帝の后をわが子のように慈しむ気持ちがあった。

「そなただけです。本当に信頼できる臣は」

 女はまっすぐな視線を逆に向けると

「私をお守りくださいませ」

 と続けた。女の声には甘えるような柔らかな響きが混じっている。

 帝が薨去された今、逆にとってはこの人をお守りすることが課せられた使命であると逆は思っている。どこか甘やかな感情を抱くのは、女が自分に寄せている好意と信頼が心地よいからである。では、と言うと引き下がったのだが、それからひと時も経たぬうちに三輪君は姫から再び呼び出され姫の御前へと駆けつけることになった。

「何事でございます」

 と問うた三輪逆は、姫の真っ青な顔を見てただ事ならぬ事態が出来していると悟った。

「大臣から遣いが参りました。私にすぐに殯宮を出よとの事でございました。穴穂部皇子がここを攻めてくるとのことでございます」

「は?」

 と三輪逆は尋ね返した。

 自分の思い通りにならないと言って、袖にした女を殺そうとはどういうことだ?まして相手は先の帝の后であるぞ、と考えている三輪逆は穴穂部皇子の攻めてくる相手が、まさか己自身であるとは露ほども思ってもいない。

「そなたを殺そうというのでございますよ」

 と姫から真っ直ぐに見つめられた逆は面食らった。

「なぜ・・・?」

「皇子としての自分への態度があや無き、と穴穂部皇子が申し立てているそうです。済まぬ。私がそなたに頼んだことが裏目に出てしまいました。とにかく」

 と姫は床に置いてある装束を指さした。

「すぐにお着替えなされませ。そして侍従として私と共にこの宮から立ち去るのです。その先は私と共にいるなり、一族のもとへとお逃げになるなり・・・」

「は」

 言われた通り装束を変え侍従のなりで慌てふためいて殯宮を後にした三輪逆は殯宮を後にするとすぐに豊御食炊屋姫と別れた。自分が狙われている以上、姫と共に居残ることは姫を危険にさらす事になりかねない、と考えそのまま三諸の山へと落ち延びたのである。

「決して無理をするのではございませぬよ。暫くは山に籠っておられるがよろしいでしょう。いずれ大臣の力を借りてそなたの無実を明かして差し上げます」

 別れ際に豊御食炊屋姫は逆の手を取るとそう言った。

「そなたを失ったら、私は・・・」

 そう言ったきり、顔を袖に埋めた姫の言葉に頷くと、三輪逆は馬を飛ばした。


 だが、その選択が後々、逆の命運を分けることになる。

 三諸の山は三輪山という別称の通り、三輪君一族の本拠である。逆を取り逃がしたと知って穴穂部皇子は激高し、

「逃げた先は三諸に違いあるまい。軍を差し向けよ」

 と大連と大臣に命じた。

 その時には馬子は姪にあたる豊御食炊屋姫からの遣いであらましのことを聞いていた。とはいえ、穴穂部皇子が姫をおかそうとした証拠がない。ここは時間稼ぎをして更に事実を調べるしかないであろうと考えた。

「もう夜も遅くございます。明日になさいませ。明日になされば、この馬子もお手伝いいたしましょう」

 と言うと、密かに豊御食炊屋姫に命じて、三諸の山へ人を遣り三輪逆を豊御食炊屋姫の別業にかくまえと伝えさせた。己の言葉では三輪君は罠ではないかと疑うであろうと、豊御食炊屋姫の言葉として伝えさせたのである。

「まさか、そこに隠れているなどとは皇子もお考えにならぬであろう。時を置けば物事の分際も明らかになる。その時は三輪君を盛り立ててやればよい」

 と馬子は考えていた。だが、三諸は恐慌を来たしていた。豊御食炊屋姫がいくら逆を匿ったとしても穴穂部皇子を先頭に大連、大臣が逆を罰しようとしているならば罪は逃れまい、と思ったのである。

 馬子が関わっている以上帝のご意思も同じに違いない、と思い込んだ三輪一族の者たちは翌日先遣として三諸の山に赴いた穴穂部皇子の手の者に糺されると、あっさりと逆の逃げた先を告げてしまったのである。

 そのことを伝え聞いた馬子は己の迂闊さに天を仰いだが、既に後の祭りであった。

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