第14話

 守屋は自分の瘡病みが仏罰であるという噂が流れていると聞くと、何を言うか、と忌々し気に呟いたが、病から癒えたばかりのその口調は弱々しかった。

 ふた月の間も床についてはいたものの、帝は未だ床についたままであり、朝議ちょうぎはその間途絶えている。

 任那を取り戻すために派遣しようとした軍はそのまま国に留まり、内政も停滞したままである。守屋は強靭きょうじんな体力でなんとか持ち直したが、帝は長年の心労が祟ってか、今なお衰弱から立ち直っていない。

 よどんだ空気が宮の辺りを覆っていた。

 そんな或る日、守屋の邸に血相を変えた面持ちでやって来たのは中臣勝海であった。一族である中臣磐余なかとみのいわれも同行していた。二人は守屋がようやく人と会えるほどにまで回復したと聞いてすぐさま守屋の邸を訪れたのである。だが、

「どうしたのだ」

 そう声をかけ、寝室に迎え入れた守屋を見て二人ともぎょっとしたように目を逸らした。瘡病みでやつれ切り、まだ瘡蓋の残る守屋の顔は昔に比べて精力こそ衰えたが、以前より遥かに悪相に見えた。肉が落ちても大柄な骨組みは山奥に棲むという鬼に見えないこともない。

「それが・・・」

 驚きから覚めて、話し始めたのは磐余である。

「大臣が・・・」

 蘇我馬子は守屋より先に病に罹ったので回復もそれだけ早かった。床からあがると直ぐに見舞と称して馬子が帝の枕頭ちんとうに訪れるのを何度か見たことがある、と磐余は忌々し気に語った。そして、唾を飲み込むと本題を告げた。

「大臣は再び帝をたぶらかし、帝は蘇我の家で仏を拝むことをお許しになられたのです」

「なんだと」

 それまでくつろいでいた姿を硬直させ守屋は身を乗り出した。

「捕えていた尼の三人もお返しになられた由」

 むぅ、と唸った守屋の悪相は更に険しくなっていた。

「まことの話か?」

「蘇我の大臣自身から昨日、その話をきいたのでございます」

 勝海が言うには、馬子は宮で会った時、

「やつがれの病も長引いて、このままでは帝にお仕えすることができませぬ。ぜひ三宝の力を借り、病を治しとうございます、とお願いしたら快くおゆるしを下さった」

 と、さも得意げに言ったのだと言う。わざわざ勝海に話したのは意趣返しに違いあるまい。

「裏も取ってございます。帝の御側におられるものの話では、蘇我は三宝の力で以って帝の病も治して進ぜましょうと約したとのことでございます。もしさようなことが万一にでもあれば・・・」

 三人は互いに目を見交わし合っている。萬は部屋の隅に黙然と坐して、語り合う三人を眺めていた。女たちが許されたと聞いた時にだけ、ふと目を天へと動かしたがその動作に気付いた者はいなかった。

「では・・・」

 守屋は屈託ありげに言い淀んだ。

「寺を焼いたために病に冒されたという噂を帝は信じておられるのか?」

「だいぶ御心が御弱りになっておられました故、そんなこともあろうかと」

 磐余は嫌々頷いた。

「馬子が三宝とやらに頼り、帝が快癒なされば、蘇我に恩を感じることは間違えございませぬ」

 勝海はかされるような口調であった。

「古来の神々を差し置いて仏が帝の病を癒したという話が広まれば・・・吾らは・・・」

 勝海があせるのも無理はない。それまで中臣一族は何度も帝の快癒を祈願して祈ったのであるが、一向に効き目がなかったのである。それが仏の力で快癒したとなれば・・・。恥をかくのは一族だけではない、国の古来の神すべてでございます、と勝海は身悶みもだえた。

「そのようなことは許せぬ。国の神をないがしろにして仏など拝めば国の根幹が揺るがされる」

 守屋は唸ったが、言葉に病に罹る以前ほどの力強さはなかった。だが、ふと思いついたかのように

「三輪は何と?」

 と尋ねた。三輪とは三輪逆みわのさかうの事である。逆は帝の御側のものとして帝に愛され、信頼も厚い。その祖は大物主神であると伝えられ、主神である大神大物主神社を篤く祀っており信仰心も深い。

 このごろは特に、仏の道への信仰に首を捻り、婚姻を手段として帝に取り入る蘇我を苦々しい目で見ていると聞く。三輪の動向が帝の心を左右するやもしれぬ。

「解せぬ、とおっしゃっておられました。帝の申されることを金科玉条のように奉じるあのお方にしては珍しいこと」

 磐余の答えにふむ、と頷くと守屋は考えを巡らせるように顎に手を当て暫く考えた末、

「では、そなたは・・・」

 と磐余を指さすと、

「三輪と語らって、新しい寺を建てるのを阻止せよ。物部、中臣のみならず蘇我の横暴を快からず思っている者が多いという事を示すのだ。大夫殿は万一に備えて兵を集めよ。わしもそう致す」

 と大声を上げた。いつもの守屋に戻ったような強い調子に、

「承知しました」

 二人は安心したかのようにうべなった。だが勝海と磐余が帰ると、萬に指示をするでもなく守屋は一人物思いに沈み込んでいた。いつもならさっそく兵たちに指示を出すところであるがそうはしない。寺を焼いた後に帝が病に罹ったという事実が、仏こそ国難のおおもとという守屋の主張を裏切っているからであろう、と萬は察した。

 それに、と萬は考えている。前回は帝の聴しがあってこそ、堂々と蘇我の建てた寺を焼き討ちすることができたのだ。だが・・・帝が蘇我に聴しを与えた寺を焼くのは難しいに違いあるまい。


 萬の見立てはおおよそ的を射たものであった。

 磐余の誘いに乗った三輪逆もいざ、蘇我を詰問する段になると、

「三輪君はさようにおっしゃるが、これは帝から直々にお聴しを得たこと。それを妨げるということは、すなわち三輪君が帝に逆らうという事でございますぞ」

 という馬子の巧みな弁舌に抗することはできなかった。

 守屋と違い、三輪逆にとっては帝こそが正しさの基準である。帝に逆らうのかという言葉に三輪は黙り込んでしまった。守屋は歯噛みして悔しがったが、その守屋とて病上がりの身ということもあって、帝の遺志に逆らってまで寺を焼く気力は持ち合わせていなかった。


「これで帝が御治りになったら・・・」

 と再び守屋の邸に参集した三人は項垂うなだれている。帝が治られること自体は喜ばしい事ではあるが、と前置きをして

「帝が快癒なされたら仏の道への傾倒は防ぐことはできませぬ。畏れ多くも万一、そうならなければならなかったで・・・。次の帝の事に思いを馳せねば。ですが日継の御子は皇太弟であられる橘豊日皇子、あのお方は仏を深くお信じになられておられますよし

 と勝海は呻いた。

「ならば・・・」

 と守屋は悪相を歪ませ、

「奥の手を使わざるをえまい」

 と唸った。守屋の悪相にいつのまにか二人は慣れたようである。

「それは・・・なんでございますか」

 中臣の二人は顔を上げた。その表情は期待と不安に揺れている。

「たしかに帝が治られたならそれは仕方あるまい。しかしそのまま放ってはおけぬ。次の帝・・・。こちらの側にあるものから次の帝を立てるのだ」

「しかし、それは・・・」

 磐余はおののいた。

「謀反ととられかねませぬぞ」

 だが、謀反と言う過激な言葉にも守屋は怯まなかった。

「帝ご自身のお考えで今の日継を廃していただく。ならねばその時は力で以って皇祖を敬うお方に日継の御子となっていただく、もはやそれしかあるまい。これは謀反ではない。正統な皇祖を推し頂く正道なのだ」

 そう断じた守屋の言葉に、

「しかし・・・どなたに・・・」

 勝海が尋ねた。次の日継を誰とすれば蘇我の力を削ぐことができると大連は考えておられるのであろう?二人の強い視線が守屋に注がれた。

「穴穂部皇子・・じゃ」

 暫くして守屋は呟いた。

「穴穂部皇子・・・しかしあのお方は・・・」

 勝海が眉を顰めた。

「そうじゃ、蘇我に連なる身。・・・ではあられるが、血がどうあれ、あのお方はこの守屋と手を組むと決心しておられる」

 守屋の言葉に、中臣の二人は怪訝そうな表情を浮かべていたが、

「なるほど・・・。ご自分を差し置いて、帝が別のお方を日継の御子をお決めになったからということにございますな」

 暫く置いて、磐余が頷いた。

「その通り。そして、皇子はそれが大臣の差し金によると知っておられる」

 ふむ、それは良い考えかもしれませぬな、と磐余は首を何度か縦に振った。

「むしろ、蘇我のうちにあるものの方が疑いも抱かれず、自由に動ける。その上、近親であるからこそ憎む力も強い。蘇我を倒すに蘇我の血を使うというのは、この磐余には良いお考えに思われますぞ。吾ら中臣としては、血がどうあれ仏の道を排することができれば良い」

「さようでございましょうか?蘇我に連なる御方を信じてよいものでございましょうか」

 勝海の心配げな問いを、年長の者らしく手を振って制すると、

「いや、穴穂部皇子と大連の間にさような誓約が取り交わされているならば、吾が一族として異見はございませぬ。早速、帝をお動かし下され」

 と磐余は言い切った。


 だが、時は既に遅きに失していた。

 即位して十七年、その統治期間のすべてを父帝の念願であった任那の回復を目指して生き、後に敏達天皇と呼ばれることになる帝は、志を遂げることなく物部と蘇我による対立の激化の最中、薨去こうきょしたのである。その葬儀で刀をいて弔辞を読む蘇我馬子を守屋が矢で貫かれた雀のようだと嘲笑し、哀悼の念と後悔に守屋が体を震わせている姿に馬子が、

「鈴を掛けたら大層な音がなるに違いない」

 と嘲ったのはよく知られているできごとである。

 そしてそれはこの二人の権力者が更に争いを深めていくことをその場にいた者たち、全員に感じさせるものだった。次の御代で物部と蘇我が両立することはあるまい、と考える者がほとんどであった。ならば、帝に近い蘇我か、あるいは守屋が乾坤けんこん一擲いってきをうつのであろうか?


 そんな中、守屋が白羽の矢を立てた穴穂部皇子の動きを制したのは、皮肉にも守屋と共に蘇我の建立した寺を焼こうと協働した三輪逆であった。帝に尽くす一心の忠臣は、穴穂部皇子が帝の位を狙って策動しているという噂を聞き、宮に隼人を配し動きを封じたのである。穴穂部皇子は怒り

「死んだ王に忠誠を尽くし、生きる王を蔑ろにするとは何事だ」

 と息巻いて、三輪君に恨みを抱いた。

 生きる王とは自分自身のことである。死んだ王とは帝の事である。王という言葉は幅広く帝の血筋を示すものではあるが・・・。

 日継の御子が決まっているにも関わらず、帝と対等の語を使って自分をなぞらえた穴穂部皇子の言動に宮人たちは驚いた。日継の皇子と穴穂部皇子の間にいつ争いが起きるか、そして守屋と馬子がそれに乗じて矛を交えるのかと固唾をのんで見守ったのである。

 しかし、先帝を継いだ橘豊日皇子は賢明であった。

 厩戸王の父であるこの帝は兄の時代に生じた臣下たちの間の確執をつぶさに見聞きしずっとその対策を考え抜いてきた。穴穂部皇子の不遜な言動を咎めるでもなく、淡々とその場を取り成すと、内政と外交に力を注ぐ姿勢を示すことによってこうじていた緊張をほぐそうと努めたのである。

 先ず、物部守屋と蘇我馬子をそのまま大連と大臣の位に留めた。万一にでも位を変えようとすれば、それは動乱の口火となりかねない。

 一方で帝は極めて慎重に大連と大臣の職務を動かした。それは守屋が感じないほどに微妙なものであり、守屋の自尊心を傷つけるようなものではなかった。むしろ余計な仕事をしなくて済む、と守屋が感じるほどのものであったが、それが積み重なることによって大連と大臣の権限はゆっくりと、しかし実質的にひっくり返るようなものになっていった。

 大連と大臣の名を、どちらを先に書かという些末な差で、後世の書でもそれを読み取ることができる。その上で、新しい帝は自分の可愛がっていた唯一の皇女である酢香手姫皇女すかてひめのみこを伊勢の斎宮に配し、神道を疎かにしないという姿勢も堅持したのである。

 仏教を早急に許すこともしなかった。


「なれど・・・安心はできぬ。気を抜けぬ」

 酢香手姫皇女が伊勢へ立った日、その姿を見送って戻ってきた守屋が顎に手を当てながら呟いたのを萬は部屋の隅で聞いている。

「何か良い方法はないものか。帝は急いで国の形を変えようとなさっているわけではないが・・・。しかしこのままではいつ何時蘇我の思う通りに政が曲げられるか分からぬ」

 と、守屋は連日のように勝海や磐余を招いて相談をしているのである。

「蘇我は帝の御側近くを固めておる。仏道を広めるなどと天に唾することをしておりながらのうのうと大臣の位に居座っておるのだ。それを何とか覆えさねば・・・」

 目立たぬように時折、穴穂部皇子と通じてはいるものの、守屋の取る手段は限られていた。新しい帝は即位したばかりで、やる気に満ちており、体はやや腺病質であるが、秀でた頭脳を持っている。大連に付け入る隙を与えるようなことはなく滞っていた政務は次第に立ち直りを見せつつあった。

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