第10話


 橿原は以前に宮があった皇室ゆかりの地であり、今の宮の東南にあたる。宮からは徒歩かちで行ってもそれほど遠くない。摂津をはじめとする海沿いの地が物部の領であるとすると、橿原を中心とする山の領は蘇我の本拠であり、それこそが皇室と蘇我の浅からぬ関係を示している。

 その橿原にある大野丘おおののおかは、萬が赴いた日、強い風に吹きさらされていた。まるで主の思いが風となって行事そのものを蹴散らかそうとしているようである。

 だがそこには思いもよらぬ人の数が集まっていた。物珍しさが手伝ったのであろうが、中にはどこで覚えたのか手を合わせじゅのようなものを唱えている者もいる。それが経というものだという事を萬は知らぬ。ぶつぶつと何かを一心に唱えている姿を、何やら薄気味の悪いものだと萬は眉を顰めた。

 丘に建てられていたのは先だって蘇我の邸で見た建物と同じようなものであったが遥かに巨大なものであった。本来の名をストゥーパと言うその塔の先端には奇妙な文様もんようきらめく金物に飾られている。それが相輪そうりんという名であることも萬は知らぬ。だが、下から眺めただけでも巨大な飾り物であり、間近で見れば目を瞠るような壮大な物であることは確かだった。いったいどうやって作らせたものであろう?

 そこに考えが及んだ時、萬は緊張で僅かに体が震えた。

 確かに主は強い。戦をすれば間違えなく勝つ。だが、あのようなものを作らせる力とは・・・。戦いだけで測れぬ力というものがあるのではないか?と、萬には思えたのだ。

 蝟集いしゅうした人々の中には高貴ななりをした者も、農夫も乞食のようなみすぼらしい姿の者たちも混じっているが分けへだてなく扱われ、きびの餅と汁の椀が振舞われている。普段なら決して交わろうとしない貴人と百姓が、一緒になって有難げに振る舞いを受けているのが物珍しかった。

 建物の脇には紫に染められた幢幡どうばんが風に膨らんではためいている。紫は貴い色でこれを染めて旗にするだけでもどれほどの費えを要しているか分からぬ。その下で何やら更に人が集まり、列をなしている

「なんだ?」

 と呟いた萬は、その儀式を司っている白い装束の少年の横顔を見て笠を目深まぶかに被り直した。

 まぎれもなくそれは厩戸王その人であった。厩戸王は寄ってきて拝む百姓の男や女の手を時折取りその額を撫でている。拝んでいるのは、たいていは目病みや足病みの者たちである。どうやら、それをいやそうとしているらしい。

 やがて、喚声と共に三人の黒い衣装を着た女たちと蘇我馬子が現れた。女たちはめいめいに手に鉢のようなものを捧げ、塔の中へと入っていく。蘇我馬子がそれに続いていくのをみた群衆は一斉に塔へと動き出した。

「あれはなんじゃ」

 と萬の隣を歩いていた男が声を上げた。塔の周りに人々は集まり、もはや人いきれがするほどである。

「あれこそは舎利というものよ。貴い骨じゃ。仏の骨じゃ。どんなに責めてもくだくことはできぬという代物だ。塔の柱頭ちゅうとうまつるのよ」

 と誰かが答えた。それを聞いて皆が手を合わせた。萬も目を閉じ目立たぬようにそっと手を合わせた。暫く経ってから目を開けると先ほどまでは遠くにいた筈の厩戸王がいつのまにか、顔がはっきりと分かるほどの所まで近づいていて、萬を見つめていた。

 あっと思い、萬が目を伏せた間際に厩戸王がにこりと微笑を送ってきたのは気づいたが、萬は惑うように人ごみを掻き分けるとその場を離れ、帰路を辿たどったのであった。


 萬の話を事細かに聞き終えると、守屋は目を瞑り暫くの間沈思したが、やがて

「さように多くの人が来ていたか」

 重いものを口から押し出すかのように呟いた。

「千とも二千とも数えきれず」

 萬が答えると、再び目を瞑り、間をおいて

「塔の先に天に突き出すような飾りがあったというのは本当だな?」

 と、問うた。

たがいませぬ」

 萬が答えると、間髪を入れずに、

「それこそは天にまします神を冒涜ぼうとくするものだ。天に楯突くもののしるしじゃ」

 と守屋は大声を上げた。そして

「いずれ、そこに集った者どもには天の罰が降るに違いないわ。見ているがよい」

と断じたのである。


 守屋の予言は思いもよらぬ形で当たった。

 仏塔を建てて間もなく建立をした馬子がかさ病みをわずらって倒れたのである。そればかりでなく、仏塔の儀式に集まった者たちが、同じ病気に冒され次々と死んでいった。

 馬子の病状もあつく、生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨っていると聞く。

 萬自身も病を覚悟した。瘡病みとは天然痘の事で、もちろんその頃にこの重い伝染病を治す薬はない。と言っても萬が覚悟したのは伝染病と知っていたからではなく、その場に赴いたものがいにしえの神の怒りに触れたのだと考えたからである。

「お前はあそこに行ったが、仏の道を信じておらぬ。だから、病には罹らぬであろうよ」

 と守屋は慰めたが萬は安心できなかった。仏の道は信じておらぬ、というより知らないが仏の像に心を動かしたことがあると己が弁えている。その心の動きを神が見逃すはずがない。人との戦いに怖れを抱いたことはない萬でさえ恐怖に夜も眠れぬほどであったが、守屋の予言した通り萬は病に中らなかった。

 だが、瘡病みは参列者に留まらず、儀式に出ていない者たちの間にも次々に飛び火した。そして、病は萬を避けたにもかかわらず、萬の子をぎ倒した。

 あんなに元気だった子は突然高い熱を発し、白い瘡を体中に発すると、僅か二日の後に息を引き取った。


 葬式は簡素なものであった。瘡病みは周りのものにもたたるという噂が流れていて布とこもに包まれた我が子を野辺に葬る時に従った者は妻と犬だけであった。

 犬は遊び相手であった萬の子が身罷ったことを知っているかのように悲し気な様子で萬たちに付き添った。

 子を野辺のべに埋め、葬るとその場で夫婦は長い間佇たたずんでわが子をしのんだ。

 力なくたどる帰り道は冷たく冴えた月が宙にかかり、星が天に満ちていた。妻は夫の袖を引き、空の一角を指さした。大きな流れ星が尾を引いて消えていく。流れ星は凶星きょうせいである。萬は立ち止まり、それを見送ると深いため息を吐いた。

 妻はその夜、萬に尋ねた。

蕃国ばんこくの教えを信心する者のせいであの子を殺した病が興ったというのは本当でございましょうか」

 妻の真剣な目に萬はたじろいだが、

「そういう噂もある」

と認めた。

「ならばそのような教えを広めた者を私は許せませぬ」

 妻の怒りは、子を持つ親の身としてはもっともだと萬は思っている。だがその怒りの一部は萬自身に向けられているのではないか?

 仏の像を見て心を揺らした萬はそう思っている。


 翌日、守屋の許に参じた萬に向かって守屋は憐れみの目を向けると、

「子を亡くしたそうだな」

 と優しい声を掛けた。

「はあ」

 と精気なく萬は答えた。

「それもこれも大臣が広めようとした教えのせいじゃ。中臣勝海と語らって主上に物申し上げることにした。お前の子の恨みをわしが晴らしてやろうぞ。仏を排し、大臣を退ける。もっとも儂がしなくても大臣は虫の息じゃ。長くはないかもしれぬ」

 そう言って萬に近寄ると守屋はその肩を勇気づけるように強く叩いた。

「一つ、お尋ね致しますが、厩戸王は息災そくさいであらせますのでしょうか」

 萬が尋ねると守屋は、ん、と首を捻った。

「病に罹っておるとは聞いておらぬな」

「・・・あのお方も大野丘におられたものですから」

 居た、というだけでない。厩戸王はそこで儀式を司っていたのである。天の罰がくだるならあのお方にも降るのが筋であろう。

「それに三人の尼という女たちも」

 うむ、と守屋は首を傾げると。

「仏の道に迷っているとはいえ、厩戸王は神の子の族のおひとり。天も哀れに思召したのであろうよ」

 と呟いたが、それだけでは尼たちが病を逃れた理由にならぬと気づいたのか、不機嫌そうな声になると、

「ともかく首謀の馬子が病に倒れたのだ、それでよかろう。あとは儂に任せよ」

とそっぽを向いた。

 はて、と萬は考えている。病は仏の道とやらを信ずるものに降ったのであろうか、それとは別に何らかの邪心を抱いているものに降ったのであろうか? なぜわが子が死なねばならなかったのか?あの子は仏の道など知るはずもない。邪心を抱く年頃でもない。病は所かまわず、人を選ぶこともなく薙ぎ倒すのであろうか。

 答えは宙に浮かんだまま、とりとめもない。


 同じ頃、ある男が日の陰った部屋の中で一人呟いていた。

「・・・ならばこの身は何であろう、我は何のために生まれてきたのであろう?」

 きらびやかな衣装はその男が並々ならぬ位にあることを示している。だがその男が呟く言葉は・・・日々の食い物にさえ困っている農夫のような不満が溢れている。呪いに満ちている

 いや・・・。

 この時代、農夫は不満さえ持つゆとりはない。彼らは日々の仕事を終え、ささやかな夕飯を取ると横になりすぐに寝入ってしまう。労働はそれほど辛く、その実入りは少ない。不満など持つ時間はない。

 その男は、その日の朝母にきつく諭された。男が

「なぜに次の帝は橘豊日命であらせられるのか。あのお方の母は今の帝の母と同じでありませぬか。母上は帝の母と姉妹でおられる。ならば次の帝は母上の子である私であるべきでしょう。それでなければ釣り合いというものが失われます。母上はなぜお怒りにならぬのか」

 と母を責めたからである。あっけにとられ息子を見つめている母を前に男は言葉を継いだ。

「世は乱れ、病は満ちております。或るものはそれが仏の道とやらを大臣が広めたせいだと言い、他の者は帝がそれを認めたからだと申しております」

 その言葉の意味は重い。

 帝の役割は天に仕えその恩寵おんちょうを得ることで民が安らかに暮らすことにある。天災を起こさぬことこそ良い帝である。天災とはひでり、大雨、風、地震なえ、噴火・・・ありとあらゆる天のもたらす災いに満ちた事象であり、その一つに疫病えきびょうがある。

 普通の病は悪い虫や、人からの呪い、動物の祟りなどが原因とされたが、疫病だけは神の領域のものとされていた。

 従って疫病の蔓延の原因が帝や大臣が仏の道を信じることで天の怒りを買ったからだという言説は当時の人々にしてみれば信じやすい論理なのである。

 もっとも仏を信じる側としてみれば、仏こそがそうした力を持っており、仏を信じる事こそが天災を避けるための手段である、流行っている病は仏の道を拒む国を懲らしめているのだと考えている。神と仏の間で帝の心が揺れ動くのは仕方のない事ともいえよう。

 とはいっても仏を信じる者たちが病に倒れている以上、神罰だと考える者が多い。だからこその噂である。

「何を申されるのです」

 帝への非難を聞いた途端、母、小姉姫は顔色を変えた。

「さようなことを・・・。この母の前でなら宜しいが、決して人に申されますな。帝がどれほどえやみに心を痛めておられるか、そなたには分からないのですか」

「しかし・・・現実に民は苦しんでおり、人は次々と亡くなっております。何よりも仏の道を唱えられておられる大臣その人が病に罹っておられる。それこそ何よりの証左ではございませぬか。それでも大臣は手厚く看病を受けておられるから生きておられるが・・・民は次々と死んでいるのです。仏の道など捨て、我らが祖、天照大神を厚く祀ることで民の苦しみを取り除くべきだと考えます。私にはその用意がございます」

 反論した息子の言葉に、

「ああ、なんと情けない」

 母はふつふつと涙を流して息子の手を取った。

「そのような心構えではいつか、お前は命を落としますよ。帝のお側にあるものは心を一つにして難局にあたらねばならぬというのに・・・。良いですか。今のようなことはみだりに口にすべきことではありません。どうか身をあやまつようなことはしないでおくれ」

 鋭い剣幕とそれに続く哀願に、

「はぁ」

 鼻白んで生返事を返した男であるが、

「皇子こそ、この乱れた政を正すことのできる唯一無二のお方。ぜひともその時が来たならば立たれませ。このわしも力になりますぞ」

 と囁いた男の言葉が頭の中で響いていた。

「そうだとも」

 男は呟いた。

「母上が何をおっしゃろうと、それが私に天から与えられた命に違いあるまいよ」

 それに・・・。己が耳に囁いた男はただの男ではない。伯父である大臣に勝るとも劣らぬ実力を持った男である。

 月明かりが俯きながら考えている男の顔を照らしている。並外れて優れた風貌、力強い体格・・・確かにその男は帝となるに相応しい姿をしている。

 その男の名を穴穂部皇子あなほべのみこという。

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