第8話

 萬が皆の集まっている庭に戻ったのは、主と中臣の大夫が邸から出てくる刹那せつなであった。

 への字に曲がった二人の口もとを見れば、話がまとまらなかったことは一目で分かった。無言のまま萬に向かって手を上げた主に頷くと、萬は外に繋いでおいた馬を率い、門の前で箱を置いて主が馬に跨るのを手助けした。

 帰り路、馬の口を取り萬は主の横を守っていた。だが、時折、出し抜けに背後を振り向く萬の姿を見て、守屋は苛立いらだたし気に

「なんだ、何かついてきておるのか?」

 と問うた。

「いえ、何も見えませぬ」

 と萬は短く答えた。

「ならたびたび振り向くな。気に障る」

 不機嫌そうにそう命じた主に、わかりました、と答えたが、萬は背で気配を探っている。

 振り向いた時は何も見えなかったが、何かが自分たちを追っている、と感じるのは鷹狩をしていた頃から身についた勘によるものである。赤檮と言う名のあの男であろうかと疑ったが、どうも違和感がある。あの時、男からは噴き上がるような殺気が感じられた。もし、あの男が追ってきているのであればどんなに消そうとしても殺気が残っているに違いない。しかしそれがない。

 何者かが追ってきているという感覚はずっと萬に付きまとったが、守屋の邸が見えた頃に突然その気配が消えた。どうやら送り狼ではなかったらしい。

「勘違いであったか・・・」

 憮然と内心呟いたのは、蘇我の邸で会った男の脅迫がそんな幻を自分に感じさせたのではないかと考えたからである。それは決して愉快な思いではない。幻などを感じ取るのは武人にとっては恥である。

 邸に戻り、そこに残っていた者たちと一緒に中臣の大夫が帰ると、守屋は萬に、

「ところで、そなた蘇我の家の様子は見たか」

 と尋ねてきた。

「は、一通り」

 と萬は答えた。

「どうであった?」

 守屋の探ってくるような眼に、

「まるで防備など考えておりませぬ。いざとなったら容易く蹴散らせましょう」

 と、萬は思った通りのことを言った。事実、守屋の邸がまるで要塞のような造りであるのに比べ蘇我の邸は無防備この上もない。背後の広大な庭は何の守りもなく、そこから攻め入ればひとたまりもあるまい。

「そうか」

 と主は満足げに呟くと、

「馬子め、わしらに向かって、仏を信じるのはわたくしのこと、おほやけにするのではございませぬ、したがって吾らの指図を受けぬ、などとほざいたわ」

 憎々し気に蘇我馬子の悪口を言い、

「その上で蘇我の家でのみ仏をまつる願いを主上に申し出るつもりだとぬかしおった。従前の通り、公で神を祀ることは疎かにしませぬ、などと。何、いずれは仏とやらを主上に信じるように勧めるのは明白。主上が信じるとでも申されれば、次は皆に広める足掛かりとするつもりに違いあるまい。相も変わらず口先だけのことじゃ」

 と続けたのであった。自分の家に帰る途上、

「しかし、仏の像はあの家にはなかった・・・と、これは中臣の太夫が調べた。あれば邸ごと燃やしてやるのだが」

 去り際に言われた主の言葉を背負い、萬は夜道を辿った。やはり・・・言わなくて良かった、と心の底で思っている。それは無意識であったが、萬にとって、主に対する初めての、そして生涯唯一の裏切りとなった。


 資人に定められた休みはない。基本、主人が呼べばいつでもすぐに馳せ参じねばならぬ。だが、その日はあだと思っている蘇我の邸を訪れたのが神経に堪えたのだろう。自らも早く休む、明日は特段の事がないからお前も一日休んでよい、と守屋は萬に言った。

 時折こうして守屋は休みを与えてくれる。そして休みを与えると何があっても呼び出さない。萬に対してだけではない。どの家臣に対してでもある。それは守屋が軍人を束ねる役であることと関連している。軍人も月に二三度交代で休ませねば却って力が落ちるという事を守屋は経験的に知っている。

 そしてそれを決してたがえることのない主に萬は感嘆している。おおかた主人というものはわがままなものである。自ら規則を作り、自らそれを破るものである。だが守屋は決してそのようなことをしない。

 萬が今向かっている家を持ち、うねという名の妻を迎えることができたのも守屋のお陰である。それまでは守屋の邸の片隅で他の者たちと共に暮らしていたのだが、二年前に守屋の族の中で、唯一萬と懇意にしていた久邇くにという男の娘と一緒になり、家を持つことを許された。

 久邇は決して高い家柄の者ではない。物部の一族の中で隅の隅で血が繋がっていることを種にかろうじて暮らしている男である。その男は自らの境遇に重ね合わせ、萬に同情し、守屋が萬に寄せる信頼を見て取ると盛んに家に呼んで、飯を食わせた。その上その一人娘であるうねという女を萬に熱心に勧めた。

 そして・・・。どうやら久邇の見立ては正しかったようである。

 守屋の下で働いている者たちも守屋の邸に住まぬものは別に住んでいるがその者たちの住むのは殆どが粗末な小屋である。それに比べれば萬の住まいはずいぶんと上等で、棟木むなぎも渡した家であった。守屋が祝いだと言って建ててくれたものである。

 その家の前にふと何やら大きな、うごめくものがいるのを見て、萬はいた剣に手を掛けた。

「何者?」

 声を上げた萬であったが、答えはない。

「うね、うね、火を持て」

 萬は家の中に向かって鋭い声で呼びかけた。声が届いたのか家の中から音がして、やがてそろりと灯った火が差し出されるように家の中から出てきた。おっかなびっくり腰を引いたまま火を捧げて出てきたのは若い男の奴婢で、その後ろで、家に残ったまま何人かの下働きの女が顔を覗かせている。

「どうしたのでございます?これ、皆、はしたない。おどきなさい」

 りんと響いた声は妻のものである。萬より歳は十も若い。まだ娘と言ってよいほどである。その声で下働きの女たちが顔を引っ込めた。

「家の前に何かおる。照らしてみよ」

 奴婢がゆっくりと火を持ち上げた。火が揺れて、ぱちりとぜる音がした。

「ん?」

 そこに行儀よげに脚をそろえて座ってるものを見て、萬は首を傾げた。犬である。

「お前は・・・」

 と呟くと、

「火を近づけよ」

 と奴婢に命じた。傍によってよく見ると、やはり蘇我の土地にあったあの奇妙な建物の前で厩戸王と共に居た子犬である。右の耳にある茶色の斑がその証であった。

「犬でございますね」

 うねが笑った。ころころと若やいだ笑いである。

「お前さま、少し大げさではございませぬか?」

「だな」

 萬も苦笑した。さては、蘇我の邸から後をつけてきたのはこの犬であろう。そう思うと、さきほどの苦い思いが溶けていった。勘働きが鈍ったわけではなかった。犬であれば、体を伏せればそう簡単に見つかるものではない。匂いを辿るので距離も人の目と違って遥かに取ることができる。むしろそれだけ離れている犬の気配を感じ取ることができたのだ。

 さて、それにしてもこの犬は、なんという名であったか。確かウで始まる名前であったが、と萬は思い出そうと試みたがすぐに諦めた。こまっしゃくれた子供が次々に挙げた仏の名前に混じって思い出しようがなかったのである。

 犬の名はウパーリで、優婆里と記す。仏の弟子の一人の名を取ったものであった。そんな常人が思い出しようもない名前を付けられた犬も、それが迷惑で逃げてきたのではないかと考えて、思わず萬は笑った。

「ここが良いのか、名が気に食わなかったのか」

 さきほど誰何した時と打って変わった優しい声で萬が犬に尋ねると、犬は盛んに尾を振った。大人しい犬である。

「ではお前の名はシロじゃ、シロと致そう、の?」

 膝を地につけ頭を撫でながら萬が語り掛けると、犬は同意するかのように小さく吠えた。

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