第7話

 ・・・であるから、

「蘇我の邸に行くぞ。用意をせよ」

 と主に命じられた時、主が蘇我を倒す決意を固めたのかと萬が思ったのは、ゆえないことではない。

「どれほどの兵を連れましょうか?」

 と応じた萬に、守屋は、ん?と目を細めると、

「まだ気が早いわ。この度は論じに参るだけじゃ。そくばくの兵を連れて参ればよい。中臣の太夫も一緒だ」

 と苦笑した。

「ですが・・・」

 と躊躇した萬に、

「なに、向こうが戦の用意でもしていれば寧ろ良い機会じゃ。その時は取って返して軍を引き連れ焼き討ちにしてやる。だが、この度は帝からの仰せに添っての談合だ。蘇我もむやみなことはすまい」

 主は言った。

「ならば、せめて蘇我に来させるべきかと」

 と萬が反論めいたことを言ったのは大連の方が大臣よりも位が高いのだから、という意味である。だが、

「致し方なかろう」

 と守屋は顔をしかめると、萬の耳に口を近づけ、

くじで負けたのじゃ」

 と囁いた。

「籤?」

 意外な語に驚いた萬に向かって、

「どちらが相手の邸を尋ねるかで論争があった。でな、帝が最後に籤で決めよ、と仰せになられたのだ」

 と守屋は忌々いまいましそうに口を曲げた。

「この事は人に申すなよ。例え籤であろうと蘇我に後れを取ったなどと知られとうはない」

 そう言うと、だがの、と言葉を継ぎ、

「よくよく考えてみれば蘇我の邸うちを知っておくのはいざと言う時に役立つであろう。負けて得とれ、とも言うではないか」

 と豪快に笑った。

「それに大臣めが、肝心の仏像をどこかに隠しおった。もしや邸うちに隠しておるのかもしれぬ。談じるついでに中臣の太夫まえつきみに探らせてみせるわ」

 主の目は悪戯っ子のように輝いている。守屋の言う中臣の大夫とは中臣勝海なかとみのかつみである。中臣の族は古来、神事を役として持つ家系であり、物部一族に増して仏の教えに危機感を持っている。

 その族の長ともいえる勝海が守屋の邸を訪れた時、その顔は目が吊り上がり蒼ざめていた。ぞろぞろと付いてきた供の者の数は百を超え、皆、ほこを手にし、背に弓矢を負っている。それを見るなり、

「それでは戦いに参るようなものじゃ」

 守屋は一喝いっかつし、

「わしの邸に兵を置いていけ、供も十と五を超えてはならん。それに軍装を解け。帝から、互いを訪れるときに戦備いくさそなえなどしてはならぬと言われたことをお忘れか?」

 と難じた。渋々とその言葉に従った勝海が選んだ中臣の従者らと共に一行は蘇我の邸に向かった。

 蘇我の邸は門を大きく開き、客人を迎えた。馬の横に従えた萬をちらりと見遣り、守屋はにやりと笑うと、

「見よ、蘇我とて馬鹿ではない。戦をするつもりはないであろうが」

 と囁くと、堂々と門を通って中へと入っていった。


 邸の主である蘇我馬子はわざわざ一行を庭まで出て出迎えた。

 金の絹糸を織り交ぜた衣装はいつにも増して豪華で華やかなものである。一方の物部の者たちは守屋の装っている黒鉄くろかねよろいはともかく、他の者たちが着ているものは粗末な麻や綿であった。ぐるり、と訪れた粗雑な身形みなりの男どもを見回し、軍装をしたものがいないことを見て取ると馬子は

「これは大連と大夫、わざわざお越しいただきまして恐縮にございます」

 満面の笑みを浮かべて礼を取り、

「さあさ、こちらへ」

 と守屋と勝海を邸の中へと招いた。そして振り返りざま、

「供の方もごゆるりと、どことでもおくつろぎくださいませ。隠すものは何一つとしてございませんからな」

 にやりと笑うと軽く一揖いちゆうし、守屋や勝海と共に邸の中へと姿を消したのである。

 どことでも寛げ、と言われると人と言うのは探る気持ちをへし折られてしまうものらしい。

 邸の中だというのに見張りの者さえおいていない。秘密のものなどあろうはずがないと考えた物部や中臣の供たちは庭に留まったまま、辺りの景色を見回していた。

 さすがに大臣の邸だけあって、造りが豪勢である。石や木の置き方もどこか唐様からようで物珍しくもある。

 そんなわけで皆、初めて目にする庭の景色に興じている。

「これが梅というものか。黒々とした幹であるの」

 と木々を愛でたり、池を覗き込んで

「やや、大きな鯉がおる。これは到来物に違いない」

 などと感心したりしている。どこかたるんだそんな雰囲気のその中で萬は一人、立ち上がると静かに庭の奥へと足を踏み入れた。

 庭は広大でどこらあたりが、別の土地との境か分からぬ程である。珍しい木々は奥に進むとたちまち消え、取り立ててどうということもない木々の覆う普通の林であった。その中を、日の高さと方角で位置を確かめながらしばらく彷徨っていた萬の目に、突然不思議な形の建物が映った。

 小さいが屋根の上に剣のように一本の金棒のような物が突き刺さった、見たこともない形の建物である。四阿あずまやのようでもあるが、様式にどこか異国の情緒が漂っていた。

「なんだ、あれは?」

 低く呟きながら下草を掻き分けつつ近寄ってみると、最初小さく思えた建物は意外と大きなものであった。建物の正面に回ると、引き戸がある。戸には鍵が掛かっておらず、力を入れて引くとぎっという音と共に開いた。

 中に人がいる気配はなかった。

 建物の周りを一度慎重に見まわしてから、その内へそっと足を踏み込んだ瞬間、萬はぎょっとして後退った。右手に雲を突くような大きな人影が見えたからである。

 だが目をらしてよく見るとそれは人ではなく、人をかたどった大きな像であった。近寄って触ると、ひやりとした感触が手に伝わってきた。どうやら石でできているようである。

 見上げると暗がりの中、像は高い視座から穏やかな視線を萬に投げかけている。

「ははあ」

 萬は頷いた。これがどうやら、今論議の種となっている仏というものらしい。仏は丈六じょうろくのものである。ずいぶんと大きいものだと感心したが中を見回すと、正面にもう一体、これは遥かに小さい、子供ほどの大きさの像が立っていた。

 大きさはともかく正面に飾られているということは、その像の方が大切にされているのだろう。薄暗い中、近づいてまじまじとその像を見た時、萬は、

「なんと美しい」

 と、ふと心が囁いたことに驚いている。

 木の像であった。

 女の体のような柔らかい曲線が指の先まで張りを持って届いている。左手は膝へと伸び右手は折れて顔を支えるような姿勢である。腕に載った顔の線は優し気に微笑み、その目は閉じて、眠っているのか醒めているのか良く分からぬ。穏やかな表情はまるでこの世と別の世界を魂が彷徨さまよっているのではないかとさえ見えた。このような人の表情を萬は生まれてこの方見たことがない。

 暫く呆然と眺めた後に、萬はそろりと指をその像に伸ばした。

 どうしても触れてみたくなったのである。しかし、美しい女の肌に触れがたいように、指は強張ったまま動かなかった。像は触れられぬことをいいことにどこか別の世界を彷徨ったままである。

 まじまじと像に視線を吸いつけられたまま萬が動けずにいたその時、開き放してあった戸から射し込んでくる陽の光が僅かに陰ったのを感じて、萬は振り向いた。

陽の光を背にして、三つの影がそこにあった。その背後から差し込む眩しい光に萬は手を翳したが思わずよろけた。よろけながら、何と無様な、と唇を噛んだ。像に魅入られ指を伸ばした自分はその時武人であることを忘れていたかのようだった。慌てて立ち直ろうと足掻あがいた。

 だが・・・。

「だれ?」

 少年の誰何の声に、立ち直ることができぬまま萬はひざまついていた。咎めたているようでもない声にどうしてそうしたのかは萬自身にも分からない。

 光を背にした子供の影は、ふっと首を傾げると、

「ウパーリ、怪しい人じゃないようだよ」

 と横にいる物に語り掛けた。クーン、という鳴き声がした。どうやら光の影に映ったうちの一体は犬らしい。

「そう言えば大叔父さまは、今日は客があると言っていたな。確か大連と中臣の大夫・・・。おじさんは、大連の付き人かい?それとも大夫の付き人かい?」

 蘇我馬子を大叔父と言うからには、その一族に連なる者に違いない。萬は

「物部の資人で萬と申すものございます」

 と抑えた声で答えた。

「そうなんだ。中臣の家の者だとちょっと厄介だったかも・・・ね」

 呟いた声は思慮深い響きを帯びていた。

「中臣の家は神職だからなぁ・・・。あの方々は仏を毛嫌いしているから、ね、ウパーリ?」

 犬は小さく吠えた。賛意を表しているかのようである。

 ふと気づくと堂の中の空気がひどく濃密になっていた。そればかりか経験したことがないほど暑い。いや、暑いだけではない。粘りつくような湿気が体に纏わりつき、額から汗が噴き出てくる。

 なんだ、これは、と萬は当惑してあたりを見回した。戸の向こうに見える何の変哲もない筈の庭がとてつもない量の緑の植物に覆われているように見え眩暈めまいを覚えた。体に覆いかぶさってくような熱気にたじろぎつつ、それを振り払うように手を振り、

「失礼ながら・・・」

 と問いかけた萬に向かってその子は先んじたかのように、

「私は厩戸うまやどという名前さ。母が私を産んだ時丁度厩におられたので、そんな名を付けられたのだ。おかしいだろう?そして、この子は弟の来目王くめのみこ

 涼し気な声で答えた。暑さなど全く気にしていないのか、感じていないかのようである。

 漸く光に慣れた目に、話しかけてくる少年と手を結んでいるまだ三歳にも満たぬ子の姿が映った。その子は親指を手に咥えたままじっと萬を見つめている。そして、その横には大人しそうな犬が座っているのが見えた。

 その犬が、ワン、と吠えた。

 突然、さっと体に纏わりついていた暑気が消え、萬はあっと小声で叫んで両手をつくとあたりを見回した。四阿に入った時とどこも変わらぬ風景である。庭は平凡な、見慣れた木々ばかりであり、その間を縫った涼しい風が額に触れて吹き抜けていく。

「どうしたんだい?」

 動顛どうてんしている萬を見て不思議そうに問い質す幼い声に、

「いえ、なんでもございませぬ」

 かろうじて答えた萬の声は震えを帯びている。まやかしか、あるいは夢かと考えたが、答えがあろうはずもない。

 どうやら緊張のあまりみた錯覚なのであろうと気を取り直すと、厩戸王、と言えば、と記憶をまさぐった。主に、以前その名を聞いたことがある。確か日継の皇子である橘豊日王の子供であった。厩戸で妃が子供を生み、そう名付けたと主は言っていた。

「妙な名じゃ」

 その時、主は首を捻った。

「さような名づけをすれば次は鳥小屋王とか、猪飼王とかも生まれるかもしれぬ」

とすれば目の前のこの子は蘇我の家の子というより帝に連なる血筋であり、いずれ帝になるかもしれない人である。萬は自然と更に頭を下げていた。

「無作法をお許しください。庭を彷徨っているうちにここにきてしまったのでございます。戸がしてなかったのでつい中を・・・」

 そう口籠った萬に

「気にすることはないよ。ここを見つけたのはたぶん、おじさんが最初さ。きっと大叔父さまは、どことなりとも見て回れとでも言ったのだろう?ここは広いからね。まさかこの堂が見つかるなんて思ってもいなかったのだろうよ」

 そういうと少年は子の手を引いてすたすたと中に入って来た。横の犬も従った。まだ子犬らしくふわふわとした毛並みをしているがそのわりには大きな犬で、背は少年の腰ほどにある。毛は純白だが、右の耳の先だけ茶が混じっていた。その犬の頭を撫でると

「ここにあるのはメッテイヤの像だよ」

 萬が触ることさえできなかった仏像に向かって跪くと、少年はその腰のあたりを優しく撫でながら誇らしげに言った。

「メッテイヤ・・・」

 萬は呟いた。メッテイヤというのは日本で言う弥勒みろくの事である。

「次にブッダとなられるお方さ」

 少年は事も無げに言う。と言っても萬には何のことか分からない。

「美しいだろう?」

 その声に萬は顔を上げた。初めてその表情を現した少年はにこにこと笑っている。その顔はどことなく少年が触れている木の仏を彷彿とさせるような中性的な美しさがある。

「と言っても、大連の資人という立場じゃあ認めるわけにもいかないか」

 と子供はこまっしゃくれたことをしゃあしゃあと言った。

「これがあの・・・仏の像というものでございますか・・・」

 萬の問いかけに、子はうん、と頷くと

「仏の像には様々なものがあるんだ。全能であるブッダそのもの、知恵を司るマンジュシェリー、理知を表すサマンタバトラ・・・」

 立て板に水を流すような少年の説明を慌てて萬は遮った。

「この像は・・・?そのメッテ・・とは何を司られるものですか?」

 こんなところで仏の道を講義されるとは思ってもいなかったのである。だいたい色々な名を立て続けに言われても覚えられるものではない。覚えるつもりもない。

ただ、さっき見た像の美しさが何を表すのかだけは知りたかった。萬の問いに少年は

「メッテイヤかい?メッテイヤは慈悲を表すんだよ」

 と答えると、今度は弟の頭を愛おし気に撫でた。弟は兄を見つめて嬉しそうに笑っている。

「慈悲・・・」

 萬は呟いた。聞いたことのない言葉である。

「慈悲というのはね、全ての生き物を愛しんで、その生を助けることの事だよ。そして生きとし生けるものの苦しみを取り除く、それが慈悲という事さ」

 ぽかんとした顔で聞いている萬の顔を見て子供は、にこりと笑うと、突然、

「おじさんは人を殺したことがあるかい?」

 と物騒な質問を投げかけてきた

「いや・・・」

 萬は人を殺したことはない。不思議なことに一触即発である世情ではあるが、戦そのものはまだ起こっていないのである。萬とて無意味に人を殺す気はない。相手を傷つけることはあっても抵抗さえしなければそれ以上のことはしない。

 だが、萬は、いざとなれば主のために人を殺すことに躊躇いはない、と考えている。

「じゃあ、生き物は?」

「それは・・・」

 生き物を殺したことがない人などいるのであろうか?鼠が穀物を奪えば殺さざるを得まい。飯のためには鳥や魚や獣を殺す。それをせねば人は死なざるを得ないではないか。萬の表情を見ると、

「ふふふ」

 と子供は笑った。

「生き物を殺したことがない人などいるのかと思っているのだよね」

 からかうような響きがあったが萬は素直に頷いた。

「それは生きるためでございますから」

 うん、と少年は頷いた。

「それを否定するつもりはないけどね、でも慈悲の心があれば無闇に生き物を殺したりしないものだよ。それが慈悲の心の種さ」

 子供は教え諭すように萬に向かってそう言った。別の子供ならば生意気な、と腹が立つところだが不思議に腹も立たぬのは、相手が帝に連なる人だと知ったからであろうか?

「とはいえ、それでは民は皆飢えてしまいましょう」

 そう反論した萬の脳裏にふと浮かんだのは子供の頃、飛丸と一緒に巣にいたもう一方の鷹の雛の姿である。萬に向かって鳴いてきたあの雛を自分は咄嗟に飼えぬ、飼っても役に立たぬ、と思って谷底に投げ落とした。あれは自分が生きるためではなかったではないか。そう思いつつ、

「では皇子は決して生き物を殺さないと申されるので?」

 と続けた。子供は少し考える素振りをして、

「そうだね。私自身は殺さない。殺生さっしょうしたものを食べることもない。でも私も飢えた人が腹を満たすために殺すことまで難じるつもりはないよ。悲しい気持ちにはなるけど。殺すというのはやはり慈悲にもとることだからね・・・」

 と答えたが、ふと真剣な面持ちになると、

「でも、魔は別だよ」

 と付け加えた。

「魔?それはいったい何でしょう」

 萬の問いに

「己の欲望のために他の人や生き物を傷つけようとする者たちさ。慈悲を持たぬばかりか、慈悲の心を蔑むような者たちのことだよ」

 少年はさらさらと流れるような口調で答えた。

「ならば、狼は、鷹は、全て魔でございましょうか?」

 萬の言葉に

「そうじゃない・・・」

 と少年は首を激しく振った。

「彼らはそうでしか生きられないものたちだからね。けれど人は違う。人は己の心を律することができる唯一の生き物だからね。それなのにいくら説いても慈悲の心を持てずに思うがままふるまおうとすれば・・・。それは魔だよ。許してはならない。魔は殺すものではなくて滅ぼすべきものさ」

 そう続けたが、ふとその首を傾げると

「そろそろ、談合も終わるころじゃないかしら。おじさんももう戻った方が良いと思うよ」

 と忠告をした。なるほど、思ったより時間を潰してしまったと、

「では、失礼させていただきます」

 と萬が頭を下げたその時、

「厩戸王さま、来目王さま・・・その男から離れられませ」

 戸の向こう側から厳しい声がした。そこに男が弓を番えて萬を狙っている。

「お前は・・・何者だ?」

 男が萬に向かって誰何した。

 弓を番えた姿を見るだけでその腕が萬には分かる。少しでも動けば箭が萬の頸を確実に貫くであろう。

「なぜこんなところにおる?」

 声と共にきりきりと引き絞られた弦が鳴く。

「答えぬか、ならば覚悟せよ」

 男が言ったその時、

「だめだよ、赤檮いちい

 ゆったりとした声が右手からした。

「やたらに殺生をしてはいけないと、いつも言っているじゃないか。その人は大連の資人さ。大叔父さまがその人が歩き回ることを許したのだからね。ここでそんなことをしたら、大叔父さまの恥になる。それだけではない。大叔父さまが物部に頭を下げねばならなくなる。いや、あるいは国を分ける戦になるかもしれない」

 少年は言いながら男と萬の間に入ると、両手を広げた。

「なれど・・・」

 小柄な少年を外すようにして尚も狙いを萬につけつつも、男は絞った弓を僅かに緩め、

「これを見られては・・・」

 そう言うと、仏像をちらりと見遣った。

「大丈夫さ。この人は言いつけたりしないよ」

 少年は萬を振り向いてにっこりと笑った。萬は頷いた。

 主に告げればきっとここを焼き討ちにするに違いない。それどころか萬にそれをさせるかもしれない。となれば・・・あの像を萬自ら滅ぼすことになりかねぬ。

 それだけは願い下げだ。あの美しい表情を破壊させられることだけは勘弁してほしい。それに・・・主は萬に仏の像の在処ありかを探れと命じたわけではない。ただ、蘇我の邸をよく見ておけ、いずれ攻めねばならないこともあるかもしれぬ、と言っただけである。ならば、敢えて仏像のことなどを告げなくても良かろう。

「だろう、ほら弓をおしまい」

 少年の言葉に男は渋々と弓を下げた。だが目は鋭く萬を睨んだままである。

「万が一でも漏れたら、その時は、命はないと思え」

 脅してきた男の言葉に、一瞬反感が、腹のうちで風を受けた熾火おきびのように灯ったがそれを押し殺し、萬は戸を抜けると邸の方へと歩み去った。それを追う者はない。


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