第5話


 萬にとって新しい生活は食うには困らないものではあったが、それまでと別の種類の苦難を強いるものであった。

 弓の腕を買われた萬はすぐに五十ほどの兵を預けられた。全て主の私兵である。物部は戦を司る族で公の兵を率いているが、それと共に私の兵をっている。その数は五百とも千とも聞いている。

おおやけの傍に信じられぬものがおるからだ。用心のためよ」

 守屋は萬にそう語った。公とは帝の事である。その傍らにいる信の置けないものというのが大臣の位にある蘇我の一族を指していることは萬にも容易に分かった。

蘇我の長を務め大臣であった稲目が没して二年、今は後を継いだ馬子うまこが一族を率い、大臣の位も引き継いでいる。二代にわたって蘇我は帝の傍にいて、次第に力を増し、平群へぐり・大伴といった旧臣を既に凌ぐ力を蓄え、物部をも脅かす存在になっている。

 そして・・・蘇我一族は仏の道を説くことによってこの国の体制を変えようと企んでいるのだ、と主は主張した。

「仏の道をこの国にもたらした百済くだら国主こきしは子を救うために新羅を攻め、戦いに敗れて首を斬られた。仏の道などというものがあるならばなぜ子を救おうとした親が死なねばならぬ?愚かな話だ」

 守屋は大臣になったばかりの馬子にもそう説いたのだが、馬子は平然と聞き流すと、親の稲目の遺志を継いで仏の道を信じると公言した。親子揃って神を恐れぬ愚か者、国賊だと、守屋は毒づいている。

 だが黙ったまま主の吐く悪口雑言を毎日のように聞かされる萬も萬で、口には出さぬが苦労している。

 守屋には複数の資人がいる。彼らは先祖代々物部の族で重要な地位を占めてきた者たちであり、捕鳥部のような賤しい身分から資人に取り立てられた萬の事を面白く思っていない。何かと言うと嫌がらせを仕掛けてくるのである。

 実を言えば、今は萬を慕っている配下の兵たちも最初はそうであった。兵たちのほとんどは奴婢ぬひの出である。

 奴婢の出であるからこそ欲は強い。腕もある。主張も強い。強弓で鳴らした者たちは、頭に兵でもなければ、物部の一族でもない者が就いたことに不満の様子であった。だが、弓比べをした兵たちは萬の力に驚嘆した。遠く射るだけではない。その正確さに度肝を抜かれたのである。

「距離だけを測るのでは足りぬ。風を見よ」

 萬の言葉に兵たちはこうべを垂れた。

 鷹を狩に使うには風を見ることは欠かせない。風向き一つで下手をすれば鷹を死なすこともある。鷹を見、木を視、雲を察し、全てを加え合わせて風の動きを知る。それは鷹狩りを司る者たちにとって天性のである。以来、兵たちは萬に一目置き、言うことを聞くようになった。

「だが・・・技で勝負をせぬ者たちは扱いが難しい」

 技で勝負する者たちは己より技量が勝るものに素直に従う。しかし家柄にしがみつく者はそうではない。どんなに萬の腕が立とうと、その意見が正しかろうと家柄が卑しいというだけで低く見ようとする。意見を取り入れぬ。

 主を迎えに行ってくれ、と言われそこに赴くと、そこには主はいない。うたげに席が用意されていない。そんな下らない嫌がらせもたびたびある。

 一度は主を迎えに行ってそこにおらぬので、戻ってくると主が別の場所で長い間待っていたことがある。慌てて正しい場所へと赴き、低頭して謝ると、主は萬の不手際ではないと知っていたのか、

「お前も苦労をするの」

 と優しく声をかけてくれた。

「あのような輩たちは奴どころか鷹にも劣る」

 と萬が思うのは、鷹や奴は腕だけで順位が決まるからである。

 腕の劣るものが、家柄という本来自分の力量に由来しない属性で人を測るのを萬は苦々しく思っている。とはいえ、忍従にんじゅうせずば主に迷惑が及ぶ。そう考えて萬はじっと耐えていた。


「帝は仏を拝むことはなされぬと申された。だがきさきがどうお考えなのか・・・」

 守屋は目の前に集う族の主だったものや資人に向かって声をあげた。壁が震えるほどの大声である。

 広い部屋ではあったが、三十人ほども入ると人いきれがする。

 部屋の隅々で熾された火が守屋の声で揺れ、見ようによっては盗賊の談合に思えぬこともない。揺れる炎に赤く照らされる男たちの顔は、火影ほかげで縁取られているせいかどれを見ても悪相にしか思えぬ。

 その一番隅で萬は胡坐あぐらをかいている。

 守屋が一族の者を集めはかりごとを開くことは珍しくない。馬子が自らの考えを族の者に一方的に押し付ける形をとっているのに比べればよほど民主的に思えるが、守屋は議を開き皆の考えを述べさせることによって一族の結束を図ろうとしていた。所存は自由に述べてよし、但し決め事には必ず従えというのが守屋の信条である。

 最初に挙げる唸り声も恒例のものである。議が何を話題にするのかを知らしめるためである。続けて守屋は近頃の宮での動きを皆に語った。

 皇后である豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめは蘇我馬子の姉、堅塩姫きたしひめの娘である。馬子にとっては姪にあたる。その皇后は蘇我の家の意を汲んで帝に仏の道を勧めるらしい。滔々とうとうと説明し終えると、蘇我は帝と血縁関係を結んで取り入ろうとしておる、わしら一族はどうすべきであろうか、と一同に問うた。

 集まっていた者たちは皆、顔を見合わせた。しわぶきがそこここで上がる。

「吾が一族にも縹緻きりょうの良いおなごはいくらでもおりますぞ」

 最初に口を開いたのは守屋の一の息子である棟高むねたかである。棟高は父に似ず端正な顔立ちである。

桐子きりこなど、どこに出しても恥ずかしくない、見目の良いおなご・・・。われわれも大臣一族と同様、帝との結びつきを強めるべきではございませぬか」

 桐子というのは守屋の末の娘である。まだ歳は八つであるが末はどれほど美しくなるか、と噂されるほど美しい娘であった。棟高も桐子も母の血を受け継いだらしい。

 物部の外では父親と全然似ておらぬ、あれは別の男の娘ではあるまいか、などと陰口を叩く者もいるがそれを知ってか知らずか、守屋はことのほか桐子をいつくしんでいる。

 ううむ、と守屋は唸った。

「確かにその通りだが、桐子が入内じゅだいできる年頃になるまであと、五年はかかる。宮のうちで力を奮うまではそれから五年、十年。それほど待ってはおられぬ」

「確かに」

 と二の息子である横木よこぎが頷いた。

「吾が一族は大臣のような姑息こそくなやり方ではなく、武によって力を示すべきでございましょう」

「その通りでございます」

 と間髪を入れず賛同したのは三の息子である堅室かたむろである。横木と堅室は、これは父の血を引いたのか守屋の若いころを彷彿ほうふつとさせる髭面と屈強な体格であった。

「しかし・・・」

 棟高は落ち着いた様子で反論した。

「それだけでは帝との関係が薄くなる。薄くなった関係はいざという時に裏切る。血というものは大切だ」

「それも、その通りじゃ」

 守屋は答えた。

「物部の先行きを考えれば、お前の言うことももっとも。わしは血のえにしというものを軽く見すぎておったかもしれぬ。桐子のことについてはわしも動いてみよう。女の力というものも見過ごしてはならぬ。帝だけではない。他の一族との結びつきも強くした方が良かろう」


 そうは言ったものの、実は守屋の妹は馬子の妻である。

 馬子が妹をもらい受けたいと言ってきたとき、散々躊躇った挙句、うまく行けば蘇我の内情を探ることができようかと妹を嫁に出したのだが、今となってはそのことを後悔している。守屋の妹は、すっかり蘇我の家に取り込まれてしまったのだった。単に血縁関係を結ぶだけではどうにもなるものではないらしい。蘇我の内情を知ろうと贈った妹が、まさか自らの族の内情を馬子に筒抜けにする道具になろうとは、と守屋はほぞを噛んでいる。

 どうも主は女の使い方がうまくない。蘇我に嫁いだ主の妹は実は守屋のことを好いていなかったと萬は聞いたことがある。守屋は旧弊きゅうへいの男尊主義者であったのだから、それも頷けないわけではない。だが、問題はそれだけではない。守屋は妹にうとまれていることに全く気付かなかったのである。そして嫁ぎ先のことを何やかや探ろうとして妹を窮地に立たせたお蔭で、妹は今や兄のことを嫌いぬき、育った家に帰ることもなく、物部の内情を夫に教えている。

 それに比して蘇我は女の使い方が上手のようである。蘇我の大臣とはどのような人なのであろうか?

 概して家柄の高い者たちは多かれ少なかれ守屋と同じような性向を持っている。その中で蘇我馬子はどうやら少し毛色が違っているようであった。そんなことを考えながら座っていた萬の耳に主の大きな声が響いた。

「いずれ、そのことは帝に直々に伝えよう。となれば、桐子の相手も後に帝となる御方を選んでということになる。他にも、族のおなごでこれと言った者がおればわしに申せ。それまでは横木の言う通り軍の力に頼らざるをえまい。皆、励めよ」

そう言うと、守屋は集まった者どもを見回した。

「他に考えがあるものはおるか」

 主の声に集まったものは皆、頭を下げた。

「どうじゃ、萬、何かあるか」

 守屋がそう言ったのは議を閉じよ、という合図である。若干の間をおいて、萬が大声を上げた。

「主の申される通り」

 それが議における萬の役目である。議の中で一番新参の者が指名され、声を発するのは守屋が考え出した事である。一番目上の者や古参の者が声を上げたらそれ以上誰も何も言えぬであろう、ということらしい。

 萬の声に、そこにいた皆が口々に和した。

「申される通り」 


「蘇我とはどのような族なのでございましょう?」

 議を終え、皆が退出したのを見届けると萬は胡坐あぐらを組んで湯を啜っている主に尋ねた。

 ぎろりと萬を睨み、ふん、と主は鼻を鳴らすと

「あの族など、たかだか十代ほどしか遡れぬ。それに比べれば、物部の祖は降臨なされた最初の帝が、東征を為された時まで遡れるのだ」

 と汚いものを語るような目つきで答えた。かつて守屋が大連になる前にその職にあった大伴金村が、

「吾が大伴の一族は邇邇芸命ににぎのみことが高天原よりこの地に降りられた時、付き添った天忍日命あめのおしひのみことが祖、それに比べ物部など・・・」

 と物部を軽んじるような発言をしていたことを恨んで、蘇我の一族に同じようなことを言っているようである。

「さようでございますか」

「わしの前でむやみとあの者共の名を口にするな。その名を聞いただけでむかむかする」

 守屋は脱ぎ捨ててあった装束を拾い上げ、荒々しく纏うと立ち上がった。


 兵たちの訓練に従事している萬にはそれから暫くの間、蘇我の大臣を見る機会がなかった。

 それが変わったのは資人に取り立てられてから五年の後、萬が資人の長まで上り詰めた時であった。その頃には家柄を以って萬を蔑ろにするものは守屋の邸でいなくなっていた。守屋の萬に対する信認は篤く、公然と萬を馬鹿にしていた者たちは役からいつの間にか降ろされてしまったのである。また、萬もそれにふさわしい働きをした。

 資人の長ともなれば、守屋が外に出るときには供をする。長となってから暫く経った或る日、宮へと向かう馬の列に出くわしたのが蘇我馬子との初めての出会いであった。その馬列は守屋の列を認めると、すぐに止まった。大連は大臣よりも重い役職である。

 普段なら重なり合うことのない宮への行列だが何かの手違いで重なると重い役職を先に通さねばならぬ。その馬の列の中で一際背の高い馬にまたがっている男がいた。その男が大臣であった。

 年は自分と同じくらいであろう、と萬は見当をつけた。杜松ねずの綾織りを着こなし、細面に丁寧に整った美髯びぜんを生やしている男は、出会ったのが守屋の列と認め、優雅に礼を取った。首を垂れているその一行の横を守屋は馬の上にふんぞり返って通っていく。

 後ろを歩く萬も一緒である。蘇我馬子も畏まったまま目も上げず、守屋の列が過ぎ去るのを待っていたが、暫く行き過ぎてから萬がふと振り返ると、未だ礼を崩さない行列の中でただ一人、首を上げて通り過ぎた列を鋭い目で刺すように見送っている馬子が見えた。だが、その男は萬の視線に感づくなり、ふっと視線を外し、あらぬ方向を見遣った。

「新参の者とわしを同じ刻に通すとは、何事だ。文句を言ってこい」

 宮に着くなり守屋に命じられ、宮の係と共に蘇我の資人と折衝する役は萬であった。

 萬は馬子が出仕する時に鐘を一つならせば良いのだと主張した。それ以外の時は、大連は自由に通ることができる。もしそれで疎漏そろうがあったときは蘇我の罪とすべきだと暗に言ったのである。

 萬の案に蘇我の資人は難を示した。

 鐘を鳴らすのは蘇我の者ではない。もし間違えがあってもそれを蘇我の非とするのはおかしいであろうと主張したのである。

 鐘を一つ鳴らして守屋が通り、二つ鳴らせば守屋が宮中に入ったという報せとしてその後に馬子が通る、という約を交わして主のもとに戻ったのは昼下がりの頃である。

 萬の話を聞くと守屋は眉を顰め、わしは鐘になど縛られとうないわ、とごねたがそれは萬の予想した通りであった。にっこりと笑うと

「そうすることで、守屋さまがいらっしゃると丁寧にお迎えできるであろうと、宮の者共が申しております」

 と萬は言った。

「ん?」

 首を傾げた守屋の耳に、

「一の鐘には一のお方なりのお迎えの仕方、二の鐘には二の人なりの迎え方。

それがあるということでございましょう」

 と萬が囁くと守屋は破顔はがんして納得したのである。



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