第4話
それから一年ほどたったある日の事である。萬は突然、守屋に呼びだされた。
いつもなら
「何であろうか?」
萬は自問した。
良い鳥を帝に献上することがある、と萬は長から聞いたことがある。主といえども帝の下に立つものである。もし望まれれば気に入った鷹でも献上せねばならぬこともあろう。
「萬でございます」
戸の前で声を上げると、
「おお、入れ」
と主の太い声が返ってきた。
戸を開けた萬は思わず鼻を鳴らした。うまそうな匂いが漂い、目の前には見たことのない馳走が並べられていた。そこにいるのは主、ただ一人である。食事の
だが主は両手を広げてから、馳走を指し示した。
「食うが良い」
にこにこと笑っている。
「お前のために
これが?と萬は目を
この馳走が自分のために?
いつもなら、
主に言われるがまま恐る恐る膾に箸を伸ばし、食べて仰天した。
「いくらでも食らうがよい、遠慮などするな」
主にそう言われて、萬の
「お前に話がある」
守屋は脇目も振らずがつがつと食らう萬の姿に目を細めながら話を切り出した。
「お前の長には話を通してある。お前、吾の資人にならぬか?」
資人?
箸を止めて萬は守屋を仰ぎ見た。聞いたこともない言葉であった。なんだ、それは?
守屋の言う資人は公の役職ではない。だが、守屋に仕え、その雑務や警固をする資人は、下級役人でしかない公の資人よりもはるかに待遇がいい。そう教えると主は、目の前の料理も忘れ茫然と目を瞠った萬に、
「吾の資人になれば、毎日そのようなものを食らえるのだぞ」
と笑った。いやも応もなかった。この時代、食えるものがあるかどうかが生きることの基準である。ましてこのような物が食えるなら、何を犠牲にすることを
「その代わり、鷹は諦めねばならぬ」
と守屋は言った。
「お前には鷹を飼う技量も弓を使う技量もある。だがわしが買うのは弓を使う技量の方だ。それに資人には鷹を飼うような時間の余裕はない」
「はあ」
と萬は
「いかがする?」
守屋は怖い声を上げた。断れば、許さぬというような勢いである。
「わかり・・ました」
絞り出すような声で応じると、守屋は
その夜、一晩萬は鷹小屋の前で寝た。飛丸は自分の主人がそこに居ることを知っているようであったが、騒ぐこともなく、己の主人を静かに受け入れた。
鷹は飼い主にしか懐かぬという説もある。とりわけ巣子から育てられたものはそうだという。現に主人を選ぶ鷹もいる。だが物部の捕鳥部のものたちはどんな鷹でも懐かせる技を持っていた。
翌朝、長に昨日守屋に言われたことを伝え受け入れると決心を話した時、すでに守屋から長にも話が通じていたのであろう、長はじろりと萬を見ると、
「そうか」
と頷くと、
「飛丸はおいていくのだな」
と確かめた。
「意のままに」
萬は答えた。前の夜まんじりともせずに鷹小屋で夜を明かし、飛丸との別れは十分惜しんだ。
「飛丸を欲しがるものはたくさんおる、どうするか?」
長は呟いた。長の視界からは既に萬は外れているようであった。残された飛丸を誰に渡すかこそが長の関心事である。
「飛丸に選ばせれば・・・いかがでしょう?」
萬の返答に長は激しく瞬きして目の前にいる男を見た。そこに萬がまだいることに驚いたようでもある。
「ん?」
長はじろりと萬を見た。
「飛丸を放し私以外の誰の手に乗るか、で決めれば」
ふん、と長は鼻を鳴らした。鷹が主人のもとに戻るのは「慣れ」と、主人が餌を呉れると知っているからである。だから、
「しかし・・・それでは」
と長が迷ったのは故ないわけではない。たとえ
「万一の時は私の手に戻します」
長は腕を組んだ。飛丸を誰に渡すにしても後で
「そう・・・するか」
暫く考えた末に長は頷いた。
秋の薄い日差しの中、萬の腕には飛丸が載っていた。鷹はいつもと変わらず落ち着いており、時折空を覗くように首を回した。
部の者たちの中で飛丸を欲しいと言ったのは八人であった。それぞれが自分で餌を決めて、飛丸が自分を選ぶに違いあるまいと自信を持っているようである。
萬が掛け声と共に放すと、飛丸は空を駆けた。そしていつもの通り、一番高い
「戻れ、飛丸」
萬がそう叫ぶと飛丸は遥かな高みから下を覗いた。その先には八本の腕と餌がある。だが、その中には萬のものはない。その一つ一つを確かめるように飛丸は首を動かしたが、梢から飛び立つことはなく、やがてふっと遠くの空を見遣った。
「萬 戻せ。他の者、手を下げよ」
長が焦ったような声を上げた。その声を聞いた男たちは渋々手を下げた。萬は手を伸ばし、いつもの通りの姿勢で、
「戻れ、飛丸」
と声を上げた。鷹は羽を広げると、飛び立った。そして萬の方へ翔けるように向かったが、腕に止まると思われたその瞬間突如、空気を切り裂いて再び空へと舞いあがった。その時鷹が、ひょう、と一声啼いたのを萬は聞いている。
「逃げたぞ」
長は
「どうするつもりだ、萬、鷹が逃げたぞ」
例え、萬が育てた鷹だとしても鷹は部の帰属であり、守屋の持ち物である。失えば、それは萬の責任であり、長の責任ともなる。長の怒声を聞きながら、萬は飛丸の去っていった方角を眺めている。
飛丸は滅多に啼かぬ鷹であった。
雛の時こそ、餌を求めて啼くことはあったが、それは餌を求める最初の時だけで、一度与えられると啼きやみ、餌が多かろうと少なかろうと更に求めて啼くことはなかった。
その飛丸が聞いたことのないような鋭い声で啼いた。啼いて己の頭上を駆け抜け、あっという間にどこかへと駆け去っていった。
長と萬は守屋の前で低頭している。飛丸を失った経緯を長がぼそぼそとした声で守屋に説明している。
萬が飛丸を譲るにあたって飛丸に選ばせると提案したこと、それに八人の男が応じたこと、飛丸が誰の腕にも止まらず萬が呼んでも戻ってこなかったこと、八人の男たちが怒っていること・・・。
守屋と会う前に、控えの小部屋で長は萬を睨みながら、
「飛丸のことを大連は殊の外お気に入りであったからな、それを失ったとなれば
と耳元でささやいた。昨夜呑んだ酒が残っているのか、その息が熟した柿のような臭いがして萬は思わず顔を顰めた。
あの話とは資人となることである。せっかく掴んだ値千金の機会を失うことに萬は
「それにあの者たちも怒っておる」
あの者たちとは飛丸を譲って貰おうとした男たちである。良い鷹を得るのは至難の業であるから、それをみすみす失わせた萬に怒りの矛先が向くのは仕方ないが、そもそも飛丸はあの時、まだあの男たちの物ではない。萬自身が見つけ、萬自身が仕込んだものである。主が怒るのは仕方がないが、男たちが怒るのは筋が違いはしないだろうか?
理不尽だと思ったが萬は黙ったまま、目の前で説諭する男を見つめていた。
「罰としてお前に一年は子供の仕事をさせろ、と申しておる。分かったな」
僅かに反抗的な目の色を長に見せてから、萬は小さく頷いた。
気持ちは違うが裁量には従うという意志である。狭い世の中で生きていくには掟に従わねばならぬことがあり、萬が今住んでいる世界の掟は長の言葉である。その掟から逃れる術は飛丸と共に去っていったようであった。
長は、うむ、と頷くと少し笑った。萬の気持ちも分からぬではない、という仕草である。
「まあ、そのうちに怒りも解けるであろう。あの者たちはそれほど根に持つ者たちではない。半年もすれば忘れようぞ。その時は取り成してやる。あまり心配するな」
肩をとんとんと叩かれ、それから二人は
守屋は髭にじっと手を当てて長の話を聞いていたが、話を聞き終えると、視線をふっと遠くに飛ばし、
「
と呟いた。目の前でしおたれていた二人の男はそれを聞いて思わず目を見合わせた。
豪い鷹?
「二主に仕えぬ、と申したのに違いあるまい、飛丸は」
訳が分からぬという顔をしている二人の男に向かって守屋は断じた。
「それは・・・?いかなることでございましょうか」
長が恐る恐る尋ねた。
「世は乱れておる。知っておろう」
守屋は目を
「先帝の御代、
その時の大臣とは
「わが父、
なるほど、そう繋がるのか、と萬は思ったが、横に座る長は目をぱちくりさせている。萬は鷹狩の折、ときどきそのような話を主から聞くが、どうやら長はそうではないらしい。
「おそらく飛丸は萬こそ、己の主と弁きだめて、主が変わるなら己一人の力で生きていこうと思い極めたのだろうよ。豪い鷹ではないか。潔いではないか。宮で無為に過ごして、どこから吹くともしれぬ風に靡くようにふらふらとしておる愚か者どもにしらしめてやりたいわ」
と守屋は言い放った。宮の愚か者どもの話はともかく、飛丸の心情については主の言うことは正しいかもしれぬ。
普段啼かぬ飛丸が別れの瞬間に自分に向かってそれまで耳にしたことのない鋭い啼き声を放ち、己の頭上を飛び越え去って行ったのが飛丸なりの主張であったというのは分からぬでもない。
主が変わるなら俺は自由にさせてくれ・・・と。
「では・・・」
思いに耽っている萬の横で、長は首を傾げた。
「飛丸をお許しになるので・・・?」
「許すも許さぬも、去って行った鷹に罪を負わせることなどできぬわ」
がはは、と豪快に笑うと守屋は、
「そちたちも許す。部の中で不満を言っておる者たちには、乞食のように人の物を請うような真似をするな、鳥を捕えるのがぬしたちの仕事であろう、と叱っておけ。萬は明日からわしに仕えよ」
と言った。守屋の前から退くと、長は不可解というような面もちで、
「ともかくも主はお許しになられたのだ。お前は言われた通りにしろ」
そう呟くと、肩を落として去って行った。
どうやら長は萬が主の怒りを買い、捕鳥部に残るという算段をしていたらしい。優秀な鷹と同じく優秀な鷹使いもなかなか育つものではない。
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