第2話
お母さんは、ICUの四角い箱の中にいた。
ガラス1枚へだてた通路で、院長に聞かされた
「自発呼吸をしていない。お母さんの身内の方にすぐ知らせてください。
少しでも…私たちが少しでも、時間を稼ぎます」
医師は、あわただしくICUに戻っていった。
残された私は、ただ立ち尽くして見ているだけだ。わたしがいても、お母さんに会えない。気づいてもいない。
なぜ今日まで、もっとお母さんに会わなかったんだろう?
「ここは、ストレッチャーが通るから。ね」
見かねた看護師に、私は人形のように支えられて、家族控室へと入れられた。
——助けてください。娘の私の血でもなんでも、使ってください。
神様に必死で祈るしかなかった。でも届くはずもなかった。
わたしは、扉を見ているだけで、頭に浮かぶのは、不安と、恐怖だけだった。
悪いことを考えてはいけない。いいことだけを考えるんだ。
いいこと…。お母さんと過ごした誕生日のこととか。
そうだ。去年は、どんな話をしたっけ?
わたしの将来のことを、話してたんだ…そしたらお母さんは…。
「それは、あんたが本当にしたいことなの?」
「うーん。ほんとはわたし、何もしたいことがないし。何にもなりたくない」
そう答えたら、お母さんはケーキのろうそくを、指でつまんで言った。
「このろうそくが見える? たった1本のろうそくで、千本のろうそくに火を灯すことができる。……私は、ずっと思ってたんだけど、あんたの内側にはね、何かがあるの。あんたはいつか、たくさんの人の心に、火を灯すことができるはずよ」
「それは親の
「わたしはふつうの人だから」。
説教めいたことを言わないお母さんが、そのとき一度だけ言った。
「でも、あんたはまだ一歩も、足を踏み出していないよね」
グサリとくる言葉だった。その通りだったから。
「えらそうに言えないけど、ほとんどの人は、流されて生きている。気づいてないだけ。
何度も流されていいのよ。だけどね、あんたは心の底から自分が望む道を見つけて、一歩ずつでもいいから、前に進みなさい。いい?」
わたしは、声を上げて泣いていた。
お母さんが助かるなら、わたしは何でもします。ごめんね。一歩ふみだすから。必ず…。
目の前がぼやけて見える。にじんだ視界の中に、白い服を着た人影があらわれた。
「大丈夫よ」その人は言った。
「何が大丈夫なの。何も大丈夫じゃない。あの人は死ぬ」
「いや死なないわ」
顔を上げると、目の前に白衣の女性が立っている。そのうしろには、いつの間にか白衣の人が取りかこんでいる。
「私たちは、彼女を助けたいと思ってるの。だから決めた。
本当は、してはいけないことを、これからするの」
女医は、古めかしい白衣をまとい、年をとっていた。
「私たちは、たくさんの人々に、光を与えた人物を見守ってきた。あなたのお母さんはその1人。数えきれない人が希望をもらったの。
でも、唯川夏目の魂は、傷ついて疲れきっている。ずっと昔に、人気が頂点に達したときに、深く魂が傷ついたの、深く深く。そのままむしばまれた。
娘のあなたには必死に隠していたのよ」
……この人は、何を言っているの?
「あなたは、助けてくれるなら何でもすると願ったわね?
〈過去〉に傷ついて、長い時間をかけて力をなくした魂は、もう〈現在〉ではなおせない。いくら私たちでも。
でも、たった1つだけ方法がある」
「教えて」
「それは、〈過去〉にさかのぼって、彼女の
魂を体から抜きとれば、私たちは魂に力を与えることができる。電池のように」
「過去にさかのぼって、お母さんの魂に力を与える?」
わたしは頭がおかしくなったのだろうか? 目の前にいるこの人は、医師じゃない。いや、人間ではない。唇が動いていないのに、声が聞こえてくる。
「ここから大事なことを話す。人間の魂は、簡単に抜きとることはできない。
時計の電池を抜いたら、時計は動かなくなる。それと同じ。
魂を抜いたら、お母さんの〈過去の時間〉はそこで止まる。
命の時計を動かし続けるためには、かわりの魂が必要なの」
「かわりの、魂?」
老女は、わたしの目をのぞきこんで言った。
「あなたよ。かわりの魂は。
あなたの魂を〈過去〉に送り込むの。過去の世界で、お母さんの魂の〈かわり〉になるのよ。
そして抜き取ったお母さんの魂を天上に運び、力を蓄えさせるの」
秋生がここにいたら、何て言うだろう? …いや、秋生に頼ってはいけない。私が信じるかどうかだ。
老女は言った。
「あなたの魂が過去に行っている間、現代のあなたの時間はストップする。
あなたが使命を終えて戻ってきたら、〈今この時〉のあなたの体に、返してあげましょう」
わたしが、お母さんのかわり? このわたしが?
「もう時間がないの。この腕時計が見える?」
文字盤に、8つの星が浮かんでいる。今はたった1つの星が弱々しく光っている。
「この8つの星の輝きは、あなたのお母さんの生命の輝き。この星が消えたら、お母さんは死ぬ。
さあどうする? この腕時計を受け取ったら、あなたの魂を過去に送る」
わたしの心には、ひとつのためらいもなかった。
「行きます」
「もう一度言いなさい。それで契約が成立する」
「行きます。お母さんを助けるためなら、どこへでも行く」
腕時計が、老女の手から消えて、わたしの左腕にぴったりはまった。
長針が、ぐるぐる逆回転をはじめた。合わせるように壁も回りだし、
灰色の渦巻きがあらわれ、世界が逆さまになり、わたしは渦の中心に吸い込まれた。
目の前が真っ暗になって…
そのとき、遠く離れた〈過去のある場所〉でも、不思議なことが起きていた。
唯川夏目という女性の魂だけが抜き取られて、天上に静かにのぼっていったのだ。
かわりに、哀れな小さな魂が〈過去〉に送りこまれた。
それは1987年
女性ソロアイドルと呼ばれた人たちが、最後のきらめきを放っていた時。
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