第二章
「まるで映画みたい」
翌日の昼休み、竜彦が拳銃を見せると、姫香はそう言った。
この日も彼はいつも通り登校し、授業を受けた。時折、穂高たちに小突かれる以外は、特に何もなかった。一見すると、穏やかで平和な日常である。
しかし、竜彦は内心、不安と恐怖で破裂しそうだった。誰かと目が合ったら、心を読まれてしまいそうで怖かった。突然警察が逮捕しに来ないか心配だったし、授業中、教師に名前を呼ばれるたびに青褪めた。
拳銃は学ランの胸ポケットに忍ばせていた。心臓が脈打つたびに銃身が揺れている感覚がした。肌身離さず持っていないと、不安で堪らなかった。
「絶対に自分で隠し持ったりなんかするなよ」
望月の言葉が脳裏をよぎる。罪悪感から竜彦はすべてを告白しようか迷ったが、結局怖くて言い出せなかった。
「映画みたいって。姫香さん、そんなこと言ってる場合じゃないんだよ」
竜彦は呆れた口調で言った。
「もちろん。本物かもしれないわね」
「いったい誰がこんな悪戯を」
「さあ。でも、どうだっていいじゃない」
「どうでもよくないよ」
「どうでもいいわ、そんなこと。闘うための、反旗を翻すための武器が手に入った。その事実こそが重要なんだから」
彼女は手に持った銃をくるくる回した。もう片方の手で牛乳を持ちながら。
真昼の陽射しが屋上の扉から差し込む。黒色の銃身に、茶色いグリップ。典型的な自動式拳銃だった。
「そんな振り回したら危ないよ」
「大丈夫よ。だって弾が入ってないもの」
姫香は手際よく弾倉を開いた。竜彦が中を覗く。拳銃の扱いは映画で学んだらしい。
「この拳銃捨てようかな」
竜彦が呟く。
「どうして?」
「持ってても無意味だから」
「無意味じゃないわ。いつか使うときが来る」
「なんでそんなこと分かるの?」
「だってこの銃は、チェーホフの銃だもの」
「チェーホフの銃?」
「アントン・チェーホフはこう書いている」姫香は銃口を竜彦の額に突きつけた。「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなければならない。つまり、きみはこの銃で誰かを殺す運命にあるのよ」
「嘘だ」竜彦は驚いて言葉に詰まる。「でっちあげだよ、そんなの。これは物語じゃなくて現実の話なんだ。ありえないよ」
「現実の話だよ、竜彦くん。銃が見つかった。見つけたのは竜彦くん」
「誰かを撃つなんてできないよ」
「どうして?」
「え?」
「どうして撃てないの?」
「人を殺してはいけないからだよ」
「どうして人間を殺してはいけないの?」
「どうしてって、それは」
竜彦は答えに窮した。悪いことだから、犯罪だから。とってつけた決まり文句しか頭に浮かばない。当たり前のことすぎて彼は考えたこともなかった。
「第一、この銃には弾が入ってない」竜彦は彼女の問いから逃げた。
姫香の口角が少し上がった。答えられなかった竜彦を、彼女は面白がっていた。
「確かにそうだね。弾なしじゃ使い物にならない。ひとまず様子を見ましょう」
「様子を見るって。その間、誰が持ってるの?」
「竜彦くん以外に誰がいるの。大丈夫よ、少し隠し持っておくぐらい」
「そんな簡単なことじゃないよ!」
竜彦は大きい声で言った。
「きゃっ」姫香は声に驚いて、階段を踏み外した。
「危ない」
竜彦は咄嗟に、彼女の身体を支えた。柔らかい感触とシャンプーの匂いがする。転落は防ぐことができたが、二人は意図せず抱き合う形になった。
白い水滴がスカートの裾から垂れる。牛乳パックを落とした際、中身の白い液体が飛び散って、姫香の制服を汚していた。
「ごめん」
竜彦は彼女に謝った。恥ずかしくて彼女の顔が見れなかった。彼女はハンカチで制服を拭いている。竜彦は下を向いた。
すると、視界の外から姫香の手が伸びてきた。小さな手が竜彦の指に触れる。握り拳が優しくほぐれ、掌と掌が重なる。姫香の手はちょうど竜彦の手よりひと回り小さかった。
「いいよ」
姫香は笑って、彼を許した。しかし、雰囲気はまだ硬く、気まずさが残った。
「拳銃は僕が持っているよ。バレないように上手くやる」竜彦は言った。
「ありがとう。優しいね竜彦くん」
姫香はそう言うと、目を細めて笑った。
チャイムが鳴った。竜彦は急いで教室へ戻った。
午後の授業が終わり、放課後になった。竜彦は無事に一日を終えられた達成感に包まれながら、一人帰り支度をした。ノートや筆箱を鞄に入れる。今日は練習が休みの部活が多いようで、生徒たちは早々に帰宅していた。竜彦は部活に入っていなかったので、――一応、自然科学部所属になっていたが、これは不登校や性格に難のある生徒を寄せ集めた、特に活動のない名ばかりの部活だった。――後は家に帰るだけだった。
「誰か、掃除当番変わってくれない?」
一人の女子が言った。彼女の名は
この日の掃除当番は、教室と四階にある美術室も掃除することになっていた。教室には穂高と委員長の飛鳥、竜彦が残っていた。
「ねえ飛鳥ちゃん、代わってよ」
まどかは声高に言った。高圧的で、イエス以外の回答を許さない物言いだった。
「ごめんね、まどかちゃん。これから予備校なの」
「え、いいじゃん、少しくらい遅れても」
「うーん......でも遅刻しちゃうし、最近あたし成績落ち気味だから」飛鳥は俯いて眼鏡をいじる。明らかにまどかに気を使ってしゃべっている。「まどかちゃんは、何か予定があるの?」
「あたしはこれからデートなの」
教室の扉から修治が入ってくる。まどかは彼の腕に掴まり、露骨に親密さをアピールした。二人は半年前から付き合っていた。土日の片方、あるいは練習のない平日はデートをするのが決まりらしかった。
「飛鳥さん、駄目かな?」修治は少しだけ申し訳なさそうに言った。
飛鳥は気まずそうに眼を逸らした。内心では断りたかったが、修治とまどかには逆らえない。
まどかは当てがつかないと分かると、すぐに次の標的に切り替えた。
「ねえ穂高、今日部活休みでしょ?」
ちょうど席を立とうした穂高は嫌な顔をした。
「休みじゃねえよ」
「嘘。蝉川と高木はとっくに帰ってる」
「自主練だよ、自主練」
「なに急に真面目になって。いつもサボってるでしょ」
「うるせえな、関係ないだろ」穂高は強い口調で言った。それでもまどかは諦めないので、彼は苦し紛れに「竜彦が代わりにやるってよ」と言った。
竜彦は驚いた。
「それ本当?」
まどかが穂高にたずねる。竜彦には一瞥もくれない。
「本当だよ。なあ竜彦?」
突然、竜彦は同意を求められた。この後、彼に予定はない。かといって、手伝ってあげる義理もない。断れるなら断りたかった。
「竜彦、いつも悪いな」
修治が申し訳なさそうに言った。
学ランを羽織って微笑む修治。竜彦は修治を卑怯だと思った。そういう言われ方をしたら、誰でも断りづらくなる。現に他の三人はもう竜彦がやってくれると期待していた。無言の圧力が竜彦を逃げないように、拒否できないようにさせていた。
結局、掃除当番は竜彦がやることになった。
「じゃあな」
穂高はバッグを肩に掛け、教室を出る。飛鳥も申し訳なさそうにお辞儀をして、塾へ向かった。
「行こう修治」
まどかは修治の腕を引っ張った。去り際にまどかは目を合わせてきたが、特に感謝の言葉もなく、教室の扉を勢いよく閉めた。
竜彦は掃除道具を用意すると、美術室へ向かった。
美術室は雑然としていた。消しゴムのカスや紙切れが床に落ちていて、机の上には絵具や錆びた鋏、カッターが放置されている。奥の方を見ると、古くなったキャンバスや使われなくなった糸鋸の破片などが散乱している。
竜彦は箒と塵取りで床のゴミを掃き取り、机の上を雑巾で拭く。しばらくすると、粗方綺麗になったので、良しとすることにした。押し付けられた掃除当番で、頑張るのは馬鹿らしかった。
ふと彼は部屋に飾ってある絵を眺めた。北側の壁に掛けてある三枚の絵。一番左側の額に入っていたのは、サルヴァドール・ダリの『記憶の固執』だった。画面には溶けて柔らかくなっている時計がいくつか描かれている。美術教師は「前衛芸術の傑作」と評した。
竜彦はこの絵が嫌いだった。絵が放つ奇抜さ、異様さを好きになれなかった。そして、教師や美術の人間が、殊更祭り上げるのも嫌いだった。彼らは絵そのものではなく、絵に漂う権威に魅了されている。そうでなければ、チープでリアリティのない絵が評価されるわけがない、と彼は思った。
中央の額に入っていたのは、ルネ・マグリットの絵だった。青空に浮かぶいくつもの白い雲。明るくて柔らかいタッチの、ごくありふれた普通の絵だった。
素朴に描かれた雲には好感が持てた。しかし、『呪い』というタイトルが気に入らなかった。画面には呪いから連想される邪悪なイメージなど、どこにもない。にも関わらず、奇を衒って、そういうタイトルをつけるところに、彼は画家の魂胆を感じて嫌だった。
二枚の絵を見ていると、竜彦は馬鹿にされた気分になった。評価している人々は馬鹿なのだろうとさえ思った。これが美術だと言うのなら、美術なんて一生分からなくていい。嫌いのままでよかった。
ただ、一枚だけ例外があった。
彼は一番右側に掛けてある絵と正対した。ジョン・エヴァレット・ミレーの絵だった。
水草の豊かな緑と赤青黄の三色で彩られた花冠、川面に浮かぶ、ドレスを着た少女。
少女の名は、オフィーリアといった。『ハムレット』の登場人物の一人だった。しかし、そんなことはどうでもよかった。
絵は草花の一本一本やドレスの意匠といった、細部に至るまで緻密に描かれている。妥協を許さぬ画家の仕事ぶりは、画面にリアリティをもたらす。そこに、奇を衒ったところなど一つもない。
竜彦はこのオフィーリアの絵が好きだった。他の絵にはない親しみが感じられた。最初は不思議だったが、すぐに謎が解けた。横たわる姿がどことなく、姫香に似ていたのである。
だからなのか、彼はオフィーリアの苦悶に満ちた表情を見るのが辛かった。冷たい川の中へ沈んでいく彼女を思うと、胸が締めつけられた。このまま彼女は溺れ死んでしまうのか。目の前にいる少女を救うことはできないのか。オフィーリアの苦しむ姿は、竜彦のヒロイズムを刺激した。
彼は手を伸ばした。無論、画面の奥の少女には届かない。触れることもできない。頬が赤く染まり、鼓動が早まる。もどかしさが心の中で暴れ出しそうになる。抑えつけるのが困難なほど激烈に。見ていることしかできない自分が、情けなく思えるほどに。
そのとき、チャイムが鳴った。時計の針は完全下校の時刻を指していた。竜彦は慌てて床を掃き、目立ったゴミを部屋の隅に追いやると、急いで下校した。
帰りに、下駄箱の中を確認した。自分の靴以外、特に何も入っていなかった。
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