闘う中学生
楠木次郎
第一章
昼休みのことだった。中学二年の
「竜彦、堪えろよ! へこたれてんじゃねえよ。おれさっき言ったよな? 今日は体力測定だって、お前が何発、腹パン耐えられるか測定するって。ちゃんと聞いてたか。こんなすぐに倒れてたら、話になんねえよ」
竜彦は立ち上がろうとした。しかし、みぞおちに入った痛みのせいで、膝に力が入らない。
「情けねえな。おいお前ら、立たせてやれ」
穂高がそう言うと、
「よっしゃ、二発目いくぞ!」
穂高は、がら空きになったみぞおちを思いきり殴った。
「ううっ」
拳が深く入る。あまりの衝撃に竜彦は悶絶した。胃液が逆流し、口から涎が垂れる。肺が潰れて、世界が一瞬だけ真空になったのかと錯覚した。堪えきれず地面に倒れる。
九月。雲一つない、雨上がりの空。地面はまだぬかるんでいて、倒れれば服に泥がつく。たった二回の"測定"で泥まみれになった。
「穂高くん見てよ。こいつ、泥の中でひっくり返っているよ。マジうける」
蝉川が馬鹿にしたように笑う。
「殴られるとき、変な声出してなかった? 虫みたいでキモかったわ」
高木は、少し俯瞰で見たような冷静さで茶化した。
竜彦は顔を見上げた。坊主頭が三つ並んでいる。背の低い方から蝉川、穂高、高木。三人とも同じクラスで、同じ野球部だった。いちばん攻撃的な穂高を中心に、放課後も休み時間も連んでいた。
「なんか見てるんだけど、キモ」
穂高はぺっと唾を吐いた。
竜彦はクラスでいじめられていた。背が低いから、頭が悪いから、目が細いから。いじめられる原因は様々考えられたが、一番の理由はクラスでのヒエラルキーが最底辺であることだった。
教室とは社会の縮小版で、当然そこには外の世界と同様、定められた階級が存在する。優秀な人間には権力が与えられ、劣った人間には何の力もなく、ただ虐げられる。彼は虐げられる側の人間だった。
三階のベランダから声が聞こえる。竜彦と同じクラスの生徒だった。
彼らは観客だった。リラックスした雰囲気で、竜彦がいじめられる様を観察する。ひそひそ陰口を言ったり、惨めな姿を撮影したりして楽しんでいる。全員笑顔で和気藹々としていた。
「なにその顔。文句あんの?」穂高が言った。
蝉川が怒っている竜彦の顔真似をした。それを見た穂高と高木は大声で馬鹿笑いした。すると、ベランダの観客たちも笑い始めた。嬉しそうにげらげらと。
頭に血が上った竜彦は、突如殴る素振りを見せた。握った拳が緊張で震える。我慢の限界だった。しかし、殴るポーズを見せても、笑い声は収まらない。むしろ火に油を注ぐ形で、観客たちを喜ばせてしまった。
深呼吸をする。本気で殴ってやろうと腕を振り上げだ。まさにそのときだった。
「その辺にしとけよ」
大きくハキハキとした声が聞こえた。振り返ると、
修治は悠然と近づき、竜彦の腕を掴んだ。ぐっと強く握られると、もうふりほどけない。修治とは体格差があるため、拳を上げたときの威勢はみるみる消えていった。
「修治、邪魔すんなよ。おれたちただ遊んでるだけなんだから」穂高はにやにや笑った。
「暴力はよくない」
修治は険しい表情をした。柄の悪い穂高相手でも負けない度胸があった。
「ちょっといじってやっただけだよ」
「そうそう」
蝉川と高木はたじろぎながら弁解したが、修治が睨みつけると、すぐにしゅんとなって下を向いた。
「そうだよ、修治くんの言う通りだよ! 穂高くんも竜彦くんも暴力はやめて。みんな仲良くしようよ!」
ベランダから学級委員長の
飛鳥の行動によって、今まで傍観してるだけだったクラスメイトたちが、一斉に修治の意見に賛同し始めた。穂高たち三人はもう立場がなかった。
チッと穂高は舌打ちすると、蝉川と高木を連れて立ち去った。
修治は竜彦の腕をそっと離した。そして、彼にも苦言を呈した。
「お前もやられたからってやり返すなよ。復讐は何も産まない。嫌なら嫌ってはっきり伝えなきゃ」
修治の言葉にクラスメイトたちも同調した。暴力に頼ろうとした竜彦はたちまち悪者になった。
僕は悪くない、むしろ被害者だ。
彼はそう抗議したかった。しかし、言葉を発しようとしても、たちまち身体が萎縮して、声にならない。修治の姿が目に映る。学ランを羽織って、堂々と立つ彼を前にすると、自分が無力に思えた。身体から力が抜け、抗議しようという気持ちも失せた。自分に欠けているものすべてを、修治は持っている気がして、劣等感に圧し潰された。
「顔が汚れてる」
修治はハンカチを取り出し、泥まみれの竜彦の頬を拭おうとした。
竜彦は修治の手を振り払った。理由は自分でも分からなかった。ただ無性に腹が立った。不思議なことに直接殴ってきた穂高たちよりも、優しくしてきた修治の方が気に食わなかった。
「何あいつ、せっかく修治が優しくしてくれたのに」
「ほんと感じ悪い」
クラスメイトたちは竜彦の非難した。ヒエラルキーでいえば底辺である竜彦が、修治を無下に扱ったことに嫌悪感を抱いているようだった。
「気持ち悪い」
一人の女子が竜彦に聞こえるように、はっきりと言った。彼女の視線は汚物を見るときのそれだった。
竜彦は視線から逃げるように、校舎の中へ走った。
竜彦は校舎の中へ入ると、階段を上った。無我夢中で走る。彼はいつもの場所へと向かっていた。
校舎のフロアは一階から四階まである。煙草の焦げ跡がついた手すり、摩滅した金属枠、くすんだ黄土色の床。階段は上階へ進むにつれて、劣化が著しく、退廃的だった。
四階を上ってさらに進むと、竜彦が"いつもの場所"と呼んでいる、ちょっとしたスペースが見えてくる。そこには、使われなくなった机や椅子、ファイル棚など学校の備品が置かれている。雑然とした踊り場を進むと、その先に古びた扉があった。剥がれ落ちた緑の塗装と錆びたドアノブ。扉は屋上へつながっている。
もっとも屋上は出入りが禁じられていた。十年以上前、生徒が飛び降り自殺をしたことがあった。学校側は直ちに再発防止のため、鍵のついた鎖で固く閉ざすことにした。それ以来、ここは開かずの扉となっているが、年月が経過して鎖が緩くなったのか、わずかな隙間が生まれていた。竜彦はそこから吹き抜ける、程よく冷たい風が好きだった。
踊り場から教室のあるフロアはいくらか距離があった。ここなら誰にも見つからないし、多少の声なら聞かれない。いじめられた後や劣等感に苛まれたとき、彼はここで自分を慰めた。
この日は先客がいた。踊り場に一人の少女が横たわっている。
少女は机の脚を枕にし、両手を組んで横になっている。肩まで伸びた黒髪、白く華奢な腕、色味の薄い唇。微動だにしないので、一瞬死んでいるのかと彼は思った。
「竜彦くん」
少女の唇が動くと、幼げな声が響く。あどけなさが残るソプラノの響き。
「やっと来た。待ちくたびれたよ」
少女は起き上がり、階段に座ると、目を細めて「えへへ」と笑った。
彼女の名は
姫香は不登校だった。
「竜彦くん、どうしたの? 怪我してるじゃない。身体も泥まみれだし」
姫香は心配そうに、竜彦の頬に触れた。
「殴られた」
「すごく痛そう。男の子のいじめって、直接暴力だから見てられない」
「姫香さんは、ずっとここにいたの?」
「さっきまで保健室にいたの」
「そうなんだ。ところで、上靴は?」
姫香はスリッパを履いていた。マジックで大きく「トイレ用」と書かれた、赤いゴムのスリッパ。
「下駄箱に上靴がなかったんだ。これで三日連続」
「誰がこんなとこを」
「さあ、姫香を嫌ってる子じゃないかな? たくさんいるから特定できないけどね」姫香は自嘲気味に言った。
「先生には言ったの?」
「言ってない。どうせ助けてくれないから。それにスリッパで生活するの、もう慣れたから」
彼女はスリッパの踵でパタパタと音を立てた。
姫香が不登校になったのは、恋愛のもつれによるいじめが原因だった。女子グループのリーダーが片想いしていた男子と、不用意に仲良くしてしまったことで、姫香はグループの女子全員から無視されるようになった。昨日までおしゃべりしていた友達から疎外されたことと、同時期に両親が離婚して姓が変わったこと──旧姓は
不登校といっても、家に引きこもっているわけではなかった。週に三、四日は、保健室に登校した。卒業するのに最低限必要な日数を稼ぐためだった。
無論、クラスメイトとは顔を合わすことができない。基本的には、保健室に閉じこもっているのだが、昼休みのときだけ、屋上前の踊り場に来て、竜彦とおしゃべりをする。二人の間には、同じ最底辺としての絆があった。
「いじめてきた奴らが謝ってくるまで、教室には行かない」
姫香は自分に言い聞かせるように言った。
「どうして?」
「だって、これは闘いだから」
「闘い?」
「そう、これは闘い。虐げる者と虐げられる者との闘い。暴虐な人間たちと闘って、安らぎを手に入れるのよ」
「安らぎって?」
「安らぎは安らぎよ。うーん、そうだなあ。なんだかこう、『ほっと息がつけるんだわ』って感じのことよ」
「それ、何かのセリフ?」
「お、竜彦くん鋭い」姫香は嬉しくなったのか、彼に顔を近づけた。「アントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』だよ。読んだことない?」
姫香は文学が好きだった。教室にいるときは大抵、一人で本を読んでいた。竜彦は文学から遠かったが、彼女が癖のように、テキストを引用してしゃべるところは嫌いではなかった。
「読んだことないから分からないけど、僕も闘うよ」
「嬉しい、ありがとう。きみと一緒なら乗り越えられる気がする」
姫香は笑った。笑うとき目を細めるのも彼女の癖だった。細い目がより狭まって一本の線になる。竜彦は彼女の笑顔が好きだった。癖のある表情の中に可愛らしさがあって親近感が持てた。
「早く卒業したいなあ」姫香が呟く。
「辛いなら休んだ方がいいよ」
「ううん、大丈夫。辛いのには慣れてるから。それに......」
「それに?」
姫香は答えなかった。代わりに、竜彦のほうへ顔を近づけた。彼女の尖った鼻先が、竜彦のそれと触れ合うくらいの距離になる。吐息が頬にかかってくすぐったい。
「ここに来れば、竜彦くんに会えるから」と姫香は優しく微笑んだ。
竜彦は姫香のことが好きだった。彼女は他の生徒と違って、普通に接してくれたし、同じ境遇の人間としてシンパシーを抱いてくれた。彼女の存在があるからこそ、彼も学校から逃げずにいられた。
僕もだよ、と竜彦が返事をしようとした瞬間、予鈴が鳴った。昼休みが終わる時間だった。
「もう行かなきゃ」
姫香は「またね」と言うと、駆け足で階段を下っていった。途中何度か段差でつまずきそうになる彼女を心配しつつ、彼は教室へ戻った。
「帰る前に、一つ連絡事項がある」
すべての授業が終了し、帰りのHRが始まると、
望月はクラスの担任教師だった。担当科目は英語。発音が少しネイティブである以外は、これといって特徴のない教師だったが、一点、彼は事なかれ主義だった。クラス担任でありながら、望月は竜彦のいじめや姫香の不登校という暗い部分には、目を向けようとしない。職員室で何を問われても、「私のクラスは全員一致団結している」といつも声を張った。それが彼の処世術であり護身術だった。
そんな望月が今日はいつになく真剣な表情をしている。それまで騒がしくおしゃべりしていたクラスメイトたちも、ただならぬ事態を察して、おとなしくなった。
「昨日、隣町で拳銃が発見されるという事件が起きた。原因は不明で犯人も見つかっていない。いま警察が調査をしている。みなさんへお願いしたいことは二つ。危険な場所へは行かないこと、もし拳銃等危険物を見つけた場合は、直ちに警察もしくは学校に連絡すること。絶対に自分で隠し持ったりなんかするなよ。拳銃所持は犯罪だからな。そのことを忘れないこと。以上」
望月が言い終わると、飛鳥が号令をして放課後となった。
「聞いたか、拳銃だってよ」
興味津々な蝉川が早速、騒ぎ出す。
「あれ見つかったの隣の中学だ。もしかしたら、うちの学校にも......」
「おい部活終わったら、ちょっと探してみようぜ。その辺に転がってるかもしれないぜ」穂高が言った。
教室の雰囲気がどことなく浮ついていた。いつもならすぐに部活へ行く生徒が多いのだが、今日は雑談を続ける生徒が多い。突然舞い込んだ非日常に、興奮しているようだった。竜彦は穂高たちが拳銃の話題に夢中になっている隙に教室を出た。
昇降口に来ると、下駄箱の前に立った。古い木製の下駄箱。嗅ぐとなぜか竹の匂いがした。
ここはとても静かだった。騒がしかった教室と比して、昇降口には一人も生徒はいない。本来この時間は、人であふれかえっているはずなのに、気配すら感じなかった。
ふと竜彦が目をやると、下駄箱の扉が一瞬光った。最初は見間違いかと思ったが、光った扉の表面を触ると、微かに熱を帯びている。
完全下校を告げるチャイムが流れる。竜彦は下駄箱の取手を引いた。
靴の上には、黒い金属製の物体が置かれている。夕陽が差し込んで、物体の表面が一瞬輝く。
下駄箱の中に置かれていたのは、拳銃だった。
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