第三章

 その晩、竜彦は夢を見た。夢は過去の記憶を巡るものだった。

 竜彦は小学五年生だった。彼は教室にいて、クラスメイトが自分の側に集まっている。彼が話をすると、みんな一斉に口を開けて笑った。

 その頃の彼はクラスの人気者だった。饒舌なお調子者で、いつも冗談を言ってクラスのみんなを笑わせていた。文武に長けていたわけではなかったが、面白い人間であることは、それで一つのステータスだった。

「峰、今日の放課後一緒に遊ぼうぜ!」

 そう言って肩を組んできたのは、穂高だった。細く引き締まった腕と、にこりと笑った顔が印象的だった。この頃の穂高はまだ背が低く、竜彦の方が少しばかり高かった。

「野球やろうぜ」

「家でゲームもしようよ。ソフトなら家にいくらでもあるし」

 穂高の後ろにいた、蝉川と高木も誘ってきた。三人ともこの頃から坊主頭だった。

 他のクラスメイトたちもこぞって話しかけてきた。彼らは竜彦の親友になろうと必死だった。放課後どこで遊ぶか、流行っているゲームの裏技、誰々が誰々に告白した噂など。各々、とっておきの情報で気を引こうとした。授業中も昼休みも放課後も、集団の中心は竜彦だった。

 男子だけでなく、女子からも話しかけられることが多かった。彼女たちは一度会話が始まると、なかなか離してくれなかった。いつまでも一緒にいようとした。あるとき、竜彦は一人の女子に聞いてみた。なぜ他の男子より自分と一緒にいたがるのか、と。

 返ってきた答えはこうだった。

「だって面白くて、清潔感があって、かっこいいんだもん」

 女子の中でも一番仲が良かったのは、雲井まどかだった。

「ねえ峰くん、良かったら今度うちに来ない?」

 まどかは言った。ウェーブした髪を指先で弄る。恥ずかしそうな素振りをしているが、内心では自信に満ちているに違いない。彼女の瞳は、そういう光り方をしていた。

 竜彦は舞い上がる気持ちを抑え、丁重に断る。断ったのは女子の部屋に行くのが恥ずかしかったからである。正確には、周囲に冷やかされるのが嫌だった。

「あーまた振った。ほんとショック。あたしのこと振る男子なんて、峰くんだけなんだからね」

 まどかは微笑むと、大きな目で竜彦を見つめた。その表情に落ち込んだ様子はなかった。彼女は自分に絶対の自信があった。だから、少し断られたくらいで彼女は動揺しない。次の日になれば、また目をキラキラ光らせて誘いに来るのだった。

 一方で、姫香とは仲良くなかった。彼女も同じクラスで、このときはまだ「築野さん」だった。決して会話をしないわけではなかったが、彼女はいつも静かに本を読んでいるので、話しかけづらい存在だった。

 こうして、竜彦は幸福の絶頂にいた。

 何をしても自分は許される。世界から特別な地位を与えられている。疑いもなく、そう確信できた。目に映るものすべてが小さく見えた。視界を遮るものは何一つない。何もせず、ただ息をしているだけで、自分には特別な価値があるのだと思えた。大きく息を吸って吐く。肺に取り込む空気はいつも新鮮だった。

 雲の上に立っているような気分だった。あまりの多幸感に目眩や頭痛がした。竜彦はその苦痛でさえ幸福の代償と考えた。それは心地よい頭痛だった。

 そんな幸福の只中にあった竜彦だったが、一人だけ障壁となる人物がいた。

「竜彦、掃除当番くらい自分でやりなよ」

 取り巻きに掃除当番を押しつけて帰ろうとすると、若槻修治が注意してきた。竜彦は、自分にだけ、真面目ったらしい口調を叩いてくる彼のことが嫌いだった。

 修治は地元の少年団でバスケをやっていた。チームは全国大会に出るレベルの強豪で、彼はそこでエースとして活躍していた。無論、クラスでも尊敬され、人気が高かった。竜彦にとって邪魔な存在である。しかし、安易に彼の悪口を言えば、竜彦といえども顰蹙を買うかもしれなかった。

 ある日、体育の授業でバスケをやった。チーム決めの結果、竜彦と修治は同じチームになった。竜彦はビブスを羽織りながらこう考えた。

 今日は修治にパスを出さない。

 結果は逆だった。試合中、修治は竜彦にだけパスを出さなかった。味方は四人しかいないので、すぐに分かった。竜彦も自分がボールを持ったら絶対に渡さないつもりだったが、攻撃時ボールは修治を経由して展開されるので、そもそもやり返すチャンスがなかった。

 にこりと微笑む修治。竜彦は苛立った。彼を傷つけるためにプレーしようと思った。

 修治のパスを受けた味方がシュートを放つ。シュートは惜しくも枠に弾かれた。ゴール下で、ボールを巡る競り合いが始まる。修治がマイボールにしようとジャンプした。竜彦は競り合うふりをして、身体をぶつけた。脅しのつもりで、軽く接触しただけだった。

 しかし、修治は大袈裟に反応した。

「痛って!」

 修治は声を上げると床に倒れた。脇腹を押さえたまま、起き上がれないでいる。銃で撃たれかのような苦しみ方だった。

「先生、修治くんが......」

 クラスメイトの動揺する声が聞こえる。体育教師はすぐさま駆けつけると、修治の肩を担ぎ、保健室へ連れていった。

 思わぬ形で中断になる授業。残された生徒たちは不安そうにしている。

「修治、大丈夫かな?」

「大会も近いのに......怪我ないといいけど」

「竜彦くん、思いっきりファールしてなかった?」

 数人の生徒が竜彦の方を横目で見た。心配の声が増えるにつれ、批判のまなざしも増える。無論、"思いっきり"ではなかった。ほんの少し接触しただけである。しかし、修治の演技が巧みだったので、悪質な暴力行為だったと認識されてしまった。

 診断の結果、幸いにも選手生命に関わる怪我ではなかった。しかし、修治は大事をとって、バスケの練習を休まなければならなかった。大会を控えた大事な時期に、エースの離脱は大きな損失だった。

 教室では修治に対する同情が大半を占めていた。それはつまり、原因となった竜彦への非難も意味していた。彼は著しく評判を落とした。

 転落の始まりだった。

 この一件で、竜彦は人心を失った。特に女子は顕著で、あれほど持て囃していたのに掌を返すようにいなくなった。好意的だったまどかも話しかけてこなくなった。

 人気が落ちると、これまでの行いも批判されるようになった。あいつは調子に乗ってる、性格が悪い、女子とばかり話している等。わざと聞こえるように陰口を叩かれた。

 この頃の竜彦は、責められることに耐性がなかった。苛立ちを隠せない。どこにいても悪口を言われている気がした。苛立ちから悪態をつくようになり、クラスでのますます評判が落ちた。悪循環だった。

 名誉を挽回するためには、どうしたらいいか。一番の得策は謝罪である。しかし、修治に頭を下げるのはプライドが許さない。

 戦争という文字が彼の頭に浮かんだ。武力でもって、どちらが正しいのかはっきりさせるしかない。

 竜彦は、修治に喧嘩をしかけた。白昼の昼休みのことだった。

 竜彦は奇襲を仕掛けた。いつものように昼休みを過ごす修治に、理由も告げず、襲いかかった。背は修治の方が少し大きかったが、ねじ伏せられない体格差ではなかった。短時間で決着をつける腹積りだった。

 教室が騒がしくなる。男子は野次馬になって、二人を取り囲み、女子は悲鳴を上げた。

 勝負の結果、竜彦は負けた。短時間で決着をつけるつもりが、むしろ決着をつけられる羽目になった。身のこなしや機動力で差が出た。修治の運動能力は驚異的だった。

 あえなく身柄を確保された。床に押さえつけられていると、くすくすと笑い声が聞こえた。

 翌日からいじめが始まった。

 朝、教室に入ると、軽蔑のまなざしを浴びた。冷ややかな侮蔑を込めたまなざし。竜彦は「おはよう」と挨拶したが、返事はなかった。群がっていた”友達”はもういない。

 席に着こうとすると、机に落書きがされていた。黒のマジックで大きく「死ね」と書かれている。マジックは油性だったので、水拭きしても文字はなかなか消えなかった。

 休み時間になると、穂高、蝉川、高木に呼ばれた。

「竜彦、お前キモイよ」

 穂高が膝を蹴ってきた。

「自分から喧嘩売っといて負けるのマジださいわ」

 蝉川はぺっと唾を吐きかけてくる。

「それな」穂高はそう言うと、竜彦に暴力を振るった。顔を蹴ったり、みぞおちを殴ったりした。竜彦は苦しそうに声を上げるたびに、三人は馬鹿笑いした。

 放課後は靴を隠された。家に帰ろうと下駄箱を開けると、靴はなく、代わりに残飯が詰め込まれていた。くすくすと笑い声が聞こえる。誰だと思って振り返ったが、声の主たちはすぐにいなくなり、走り去る足音だけが昇降口に響いた。

 その程度ならまだ良い方で、雨の日は、泥のグラウンドに教科書やノートを放り投げられた。竜彦はたっぷり水分を含んだそれら紙類を回収しなければならなかった。途中、雨脚が強くなりずぶ濡れになる。急いで集めようとして足を滑らせた。全身泥まみれになる。生まれて初めて砂利の味を知った。

 雲井まどかとはそれ以来、会話はない。それどころか目すら合わせてくれなくなった。竜彦はなんとか彼女とのつながりを復活させようとしたが、彼女の半径五メートル以内に近づくと「チッ」と舌打ちをされた。もう彼のことは生理的に受け付けないようだった。

 まどかは修治と話すようになった。積極的に話しかけて、机に腰をかけて距離を詰めてしゃべっている。かつて竜彦のものだった、あの愛らしい笑みを浮かべて。

 竜彦はうちのめされた。唐突に、再起不能なまでに。少し前まで絶頂にいたはずなのに、いまは泥にまみれている。泉のように溢れていた全能感は、いまはもう消えている。無条件に自分を信じる力を、彼は喪った。

 夢は過去の記憶を映し出していたが、次第に輪郭がぼやけて、曖昧になった。竜彦は自分がどこにいるのか分からなくなった。

 気がつくと、彼は空の上に立っていた。雲や鳥が下に見える。なにかガラス板のようなものが足元にあって、その上に立っているのだと思った。

 ありえない現象だったが、夢だと認識していたので動揺しなかった。彼は自分の下で浮遊する雲と、その合間を飛行する二羽の鳥を見ていた。

 ここから落ちて自分は死ぬのだろうと彼は思った。ガラス板が溶け、足元が崩れてゆく。

 彼の身体は宙に浮き、そのまま落下した。加速する落下速度。腕を広げれば、風圧でちぎれそうなくらいだった。竜彦は瞬きすることなく、前を見続けた。迫りくるコンクリートの地面が鼻先から衝突するその寸前まで。――

 次の瞬間、竜彦は小川の中で横になっていた。冷たい水の感触が肌に刺さる。水草が川の流れに身を任せている。静かな流れをしているが、底の方は泥で濁っていた。すぐ傍に枝の折れた柳の木があった。

 どこか見覚えのある光景だった。耳元で川のせせらぎが聞こえる。手元を確認すると、一輪の花冠が掌に絡まっていた。ひなぎくとパンジーと、それから赤い芥子の花で編まれた花輪。

 隣には不幸そうな顔をした少女が浮かんでいる。血の気の失せた白い肌に、灰色のドレス。右手には色彩豊かな花輪が握られている。

 オフィーリアだった。

 美術室の壁に掛けられていたミレーの絵に描かれた、あの少女だった。死んだ目をした彼女は水の上で仰向けになったまま動かない。衣服が水を吸って重くなっている。腹のあたりには白く濁った液体が揺蕩っている。おそらくそれは牛乳だった。

 彼女は、いまにも深い水底へ沈んでいきそうだった。

 竜彦は彼女の背中にそっと手を添えた。華奢な身体つきをしていた。

 彼女の薄い唇が濡れて光る。薄幸の少女はなにごとかを口ずさんでいた。竜彦はゆっくり彼女の口元に顔を近づける。しかし、声がかすれていて、うまく聞き取れなかった。

 近くで見てもオフィーリアの表情は変わらなかった。死に落ちゆく哀れな妖精の顔をしていた。その淀んだ――かつては光が射していたであろう――瞳はまっすぐ竜彦を向いている。こちらを笑ったり馬鹿にしたりせず、ただ天を仰いで自らの不幸を嘆く彼女の姿が彼は好きだった。

 オフィーリアの顔を見ながら、竜彦は樋水姫香のことを思い出した。なぜ彼女を思い出したのか。自分でも分からない。オフィーリアと姫香。絵画の中の姫と不登校の少女が、竜彦の心の中で不思議と重なった。

 そんなことを考えているうちに、オフィーリアの顔が変化し始めた。彼は顔を近づけた。ぼやけた輪郭は姫香に似ていく。姫香の瞼が開く。初めはツンと冷たい顔をしたが、やがて表情が柔らかくなり、細まった目をした笑顔になった。

 彼女が笑ってさえいてくれれば。竜彦は願った。それさえあれば、どんな辛いことも乗り越えられた。

 眺めていると、彼女の胸元から金属の物体が現れた。竜彦の拳銃である。ドレスと肌の間から銃身が覗いている。竜彦はゆっくり彼女の胸元に手を伸ばし、それを受け取ろうとする。――

 夢はそこで終わっていた。

 竜彦は目を覚ますと、自分の身体がベッドの上で寝ていることに気づいた。現実に戻っていた。

 同時に、彼は下半身の不快感に気づいた。異様な感触だった。少年の脳裏に嫌な予感が走る。恐る恐る下着をずらす。瞬間、彼の背中に罪の意識が這い上った。

 竜彦は夢精していた。

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