天に咲く月

霜月悠

天に咲く月は、僕の憧れだった

 ねえ。気づけばぽつり、言葉が落ちていた。空気にひびが入って、ぱしりと割れる。



 隣に座る朔夜は甘い香りをぱっと散らしながら、なに、とでも言わんばかりに無表情で僕を見る。それ以上は何もしない。


 不気味なくらいに大きな目の中に月色の瞳がちっとも動かずに留まっていて、そんな愚直さが心地良かった。



 頭の中はまるきり空だったから、なんとなく空を見上げて、満月だ、と息まじりの声を絞る。横の彼も同じように上をぼやりと眺めて、眩しそうに目を細めた。


 それからすっとまたこちらを見て、やけにくっきりと言う。



 「でもおれ、満月ってあんま好きじゃないかも」

 そう言葉にした朔夜の薄青の髪が、てらてらした光に透けるように柔らかく揺れた。まるく太った月だけが、僕たちを無言で見つめている。



 一週間前、くらいだろうか。僕はぼうっとしながら海を見つめて、誰もいないコンクリートに座っていた。


 釣り人が座ってそうだなという雰囲気の、まっすぐに突き出した場所。幼い頃からよく一緒に遊んでいた、僕らにとってのいつもの場所。自分の部屋の中はため息が飽和して息が詰まりそうだったから、つい外に出てきてしまった。


 朔夜はふと気づいたら隣にいて、そのときから胃のせり上がってくるような息苦しさが溶けるように消えた。



 それから朔夜は毎晩隣に座るようになって、僕は毎晩、朔夜を見ている。


 陽の光の下に居ない朔夜は触れたら融けてしまいそうで、目を離したらもう二度と会えなくなってしまいそうで、何かに憑かれたようにじっと見入っていた。



 「声、聞くの久々」


 そう言う朔夜こそ、ずっと声を聞いていなかった。久しぶりに聞いたそれは思ったよりも高いような低いような、不明瞭で心地良い音だった。



 「いっつも夜ここに来るけど、学校とか大丈夫なの」


 ふふ、今更だなあ。ここしばらく高校になんて行ってないのに。いつも寝坊ばっかりだった僕がこんな時間まで起きてたら大丈夫じゃないってこと、小学校から一緒の君なら知ってるでしょ。


 目の前の朔夜はちょっと意外そうな顔をしている。ほとんど表情は動かないけど、目がくっと猫みたいに見開かれてきょとんとしている。その表情がささくれ立った心を逆撫でして、脳の奥がぴりっと痛んだ。



 朔夜はまた、すっかり染み付いてしまった静けさを作って下を向く。軽く考え込むそぶりを見せた後、猫背のままで眼だけをぐりんと動かした。


 驚くほど大きな目にまっすぐに射抜かれた僕は、思わずふっと視線を外す。



 「ね、少し真面目な話をしようか」

 え、嫌だ。そんな顔されたらどうしていいか分からなくなる。


 僕を覗き込む朔夜の目は据わっていて、どこか狂ったおもちゃみたいに瞬きひとつもしない。



 「君さ、なんでおれがここにいるか知ってるでしょ」

 なんでって、そんなこと言われたって困る。僕がここにいたら、いつも来てくれるじゃないか。君が来たいからここにいるんじゃあないのか。


 脂っぽい汗がコンクリートにぼたりと滲んだ。朔夜は気持ち首を傾げて、厭らしく微笑む。



 「よく思い出してごらんよ。あんなに楽しそうだったのに、もう忘れちゃったの? 薄情だなあ」

 視界が何だかちかちかする。写真を脳に直接貼り付けられたみたいに、ぶつ切りの映像が見える。


 眠るように伏せられた長い睫毛、生白い腕、不気味に残った指の痕、ゆるゆる酸化していく甘い赤さ。全部が中途半端に嘘っぽくて、まるきり偽物みたい。


 そんなこと、前は少しだって思わなかったのに。



 あのときはその頼りない管に指をかけて、息を止めた。その次の夜は、甘ったるく鼻を刺す鉄の匂いが噴水みたいに溢れ出した。その次は、壊れた人形みたいになったそれを、床に並べてみたりもした。


 その頃はそんな子供騙しなことでも満足できた。僕が毎晩朔夜を消してしまっても、朔夜は毎朝おはよう、と笑っていたから。



 なのに、それでも間に合わなくなって、足りなくなって。そんな嘘っぱちの夢じゃあ全く心が動かないのに、欲望だけが日に日に増えていく。僕の心は溜まりきった渇望にずぶずぶに沈んで息もできなくて、もうどんな本もどんな映画も僕を慰めてはくれなくなった。


 だって僕には朔夜しかいなかったから。その消えてしまいそうに冷たい色が、それだけがこの世で一番の芸術だったから。その至高を僕の手で完成させたい。それだけが僕の願いだった。



 その気持ちを全部吐き出してしまったとき、朔夜はへえ、そうなのって興味も無さそうに言っていた。ちょうどこの場所で、このコンクリートの上で、本を読みながら。その前に連なった言葉が何であったかなんて興味ないみたいに。これだけ悩みに悩んで伝えてしまった告白を、いとも簡単に。


 ぼろぼろになって理性のふちに立っている僕を、無言の空気がそっと突き落としたようだった。



 朔夜の額に手をかけて、そのまま硬い地面に叩きつけるようにして押し倒す。手のひらの下からがつんと衝撃が響いて、かもめが騒音と共に飛び去った。そのまま反対の手に力を入れて、その細い首を押さえ付ける。


 僕の下に転がる体はちっとも抵抗せずに、死にたがりみたいに寝転がったまま。うっすら赤みを帯びた朔夜の顔は、ほのかに苦しそうだったけど眠っているようだった。さっきまで読んでいた本は、手から滑り落ちて水の中に沈んでしまったようだ。


 ふと立ち上がって見下ろせば、閉じられた瞳から溢れた雫は信じられないくらいに透明で、月光を鈍く反射して青白く煌めいていた。やっぱり朔夜は、月の光がよく似合う、けど。



 「思い出した? もしかしてあれからずっと引きこもっておれのこと考えてたの? 一途じゃん、泣かせてくれるね」


 違う。いや広く言ったら違わないけど。君のことずっと考えてたのは、君が綺麗だったからじゃなくて、君が期待外れだったから。


 僕はずっと、君のその温かさが邪魔だと思っていた。それさえなければ完璧なのにって。だから奪ってしまおうとした。


 でも違った。棺の中身みたいになった朔夜は美しさでいったらこの上なかったけど、そうじゃない、何かが足りない気がした。


 不完全で、不安定。それが良いって言う人もいるだろうけど、僕は未完成を求めていた訳じゃなくて。


 そんな失敗作を自分の手で作ってしまった失望が気持ち悪くて逃げ帰って、思い出したら吐きそうだから家から出られなくなった。そうして腐っているうちに部屋の中すら居心地が悪くなって、逃げ出すようにしてたどり着いたのは結局ここだった。我ながら酷い自己矛盾だ。



 「なんか苦しそうだね。そこからほんのちょっとだけ前に飛び出したら、全部無かったことにできるよ」


 くすくす笑うように、歌うように微かに呟く。何だか朔夜じゃない、別の何かみたいだ。頭がぎゅうっと緩く締め付けられて、意識がぼんやりしてきた。

 つられて、すぐそこで無限に広がる海面を覗き込む。


 この海にすっぽり飲まれて沈んでしまえたら、何もかもリセットしてやり直せるかな。


 ちょっと薄っぺらい願望じみてるけど、そうでも思わないとやってられないから。



 水面は小さく泡立っては砕けて溶けて、どこか楽しそうに見えた。この泡と一緒に、僕も弾けてしまいたい。それで、とっくに破綻していた存在ごと、綺麗さっぱり消えてしまえたら素敵だろうな。


 隣から、上から、中から聞こえる何かの笑い声に包まれながら、組んでいた足先を、ちゃぷちゃぷ揺れる月に向けてまっすぐ伸ばす。



 ――なに、してんの。



 透けるような、無表情に静かに通る声。後ろから。僕は緩慢な動作で振り返る。いつの間にか暗闇に溶け込むようにして朔夜が立っていた。なんで足音に気づかなかったんだろう。


 彼はなお僕の顔を覗いて、こんな遅くまで起きて、顔ひどいよ、最近寝れてるの、なんてらしくない心配をする。声を出すのさえも嫌だったから、僕は黙って朔夜を見上げていた。


 青白い満天の星に照らされた彼はいつも通りに気だるげで、ちょっと安心する。朔夜はふっと僕の隣にかがみ込む。



 今週ずっとここ来てるの、と問われる。そうだよ、と短く返せば、おじさんとおばさんが心配してたよ、と告げる。


 また黙りこくる僕に、朔夜は空を見上げながら、今日は暗月だね、と言う。暗月、と繰り返せば、いわゆる新月ってやつだよ、と教えてくれる。


 ほんとは新月って三日月くらいの細い月のことなんだって、なんて、僕の知らないことを幾らでも教えてくれる朔夜が小さい頃から好きだった。いつから忘れてしまっていたんだろう。


 朔夜は僕を見ないまま、やっぱり暗月は一番きれい、無理して背伸びしてなくて、と呟く。月光なんて陽光のおこぼれだもの、きらきらした飾りがなくたって月は立派なもんだよ、なんて言う彼は僕の暗月だったのかな。



 嗚呼でも、それにしては、目の前で熱を孕んで生き続ける朔夜はあんまりにも美しすぎる。


 それは月じゃなくて、命を削って自ら輝く淡い恒星、だろうか。その光を奪って満足しようだなんて、僕はなんて傲慢なやつだったんだろう。



 この前のことだけどさ。そう無造作に切り出されて胃がきりきりと音を立てた。その瞳は柔らかく穏やかに、まっすぐに僕を捉えている。僕が何をしたかなんて、少しも気に留めていないみたいに。


 逃げ出したいけど、駄目だ、そんなことしたら。もう何とでも言ってくれ。馬鹿野郎でもふざけんなでもサイコパス野郎でも何でも、何を言われたって受け入れるから。



 そう思ったのに、彼は優しすぎて。おれたちの間には何もなかった、それでいい? と無感動に告げられた判決に、勝手に目元が熱くなって頬が濡れた。



 ほら、早く帰って親御さんを安心させてあげなよ。朔夜はそんな僕には目もくれずくるっと身を翻して、いつものふわふわ浮いたようなぎこちない足取りで地面を蹴っていく。

 とん、とん、と操り人形みたいに、月面の宇宙飛行士みたいに。



 僕はその薄くて危なっかしい背中を目で追いながら思い切り、息を吸い込んでみた。泣いた後の熱っぽい、つんとした匂いと、生暖かく湿った潮の匂いがする。

 もう、あの甘い香りは少しもしない。

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天に咲く月 霜月悠 @November1101

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