初恋

『描写』(6/4 花金参加作品)

 毎日代わり映えのない通学時のバス。随分と町の外れから出ているバスの乗客は、いつもほとんど同じで、いつもの席にいつもの誰かがいる。

 私が座っている席は左列の後方。右前方の空席にふと目が留まる。珍しい。私と同じくらいの田舎から、私よりも早くにバスに乗って毎日そこに座っている、クラスメートの彼の姿がないのだ。

 その時は、まだその事実を何となく頭の片隅で認識しただけだった。しかし、学校について、他には人がいない美術室での朝練に顔を出して、教室に戻った時の得も言われないどんよりとした居心地の悪さから、非日常は始まった。

 少し遅れてきた黒い背広姿の担任は、神妙な顔で教壇に昇り、教室中を見渡した。それから、落ち着いて聞いて欲しい、としばらく前置きをしてから、言いにくそうに口を開く。

「昨日の夜、前田が交通事故にあって亡くなったと連絡を受けた」


 元より、漏れ出た噂くらいに耳にしていた人間はいたのだろう。教室中に溜まった不穏な空気はよどみを増して、どこかしこからすすり泣きまで聞こえる。

 彼は、あまりクラスに馴染まない人間で、他人に声を掛けられれば違和感なく協調はするけれど、誰ともつるまない浮いた人間だった。見ている限り、誰とも特別仲が良かった訳でもないのに、誰もが彼を悼んでいる。

 私は、ふと息苦しさを感じた。その息苦しさが何なのか理解できないまま、静かな教室で大人しく授業を受けた。



 次の日の朝。いつものバスに乗った際に、ふと目が留まり、彼のいつもの席へと足を向けた。それは、私なりに彼を悼んでいたのかもしれない。

 自宅が学校から遠い私は、夜遅くまで部活に参加できない。それゆえに早く登校し、美術室で一人朝練へと励んでいた。他の学生と乗り合わせない早朝のバスに、なぜ部活には入っていないようだった彼がいたのかは知らない。降りた時に一言挨拶を交わすのが、私の彼との微かな接点だったと思う。


 彼のいつも見ていた景色は、バスの右側と左側という差だけで、私がいつも見ていたものと少し違って新鮮だった。彼が座っていただろう席。今後もう、彼が座ることはない。どこかまだ現実感が薄い中で、ふと椅子や手すり、窓なんかを見渡した。そして、壁に鉛筆でうっすらと書かれた落書きに目が留まった。


『さようなら』


 そう一言、白い塗装がでこぼことはげかけた金属の壁に書かれた文字。それは、私が知っている彼の筆跡によく似ていた。



 私はドキドキと騒ぐ胸を逸らせて、まだ誰もいない早朝の教室に駆け込んだ。しんと静まり返った薄暗い教室の電灯をつけて、慌てて教室の奥にある棚へと走り寄る。

 そこには、使い込まれた辞書が定位置のように置いてある。背表紙の一部が離れて浮き上がった、何度も何度も捲ったのだろう辞書。

 以前その辞書に興味を覚えて、見てみた事があったのだ。その時に、細かくメモが書き込まれた辞書の表紙の裏に、几帳面な文字で『前田』と記されているのを見て、それが彼のものである事を知った。

 私は彼の辞書をペラペラと捲る。書かれたメモを眺めては、考えが確信的になってくる。やはり、バスで見た落書きは、彼の文字にそっくりだった。



 放課後の美術室。美術部の面々は、話半分、作業半分に自らの作品へと向かい合う。

 私は、目の前のカンバスを眺めて、手元のクロッキー帳に頭の中のごちゃごちゃとした線を描く。

もろの絵は、技術的には一線を画してるんだけど」

 昔から絵を描くのが好きだった私が言われ続けて、探し続けて、それでも見つからない何かと、このもやもやした思いはほとんど同じものに思えた。

 例えば美しい花を、それと描く事は私には容易い。でも、花は花であって、そこに在る意味を持たない。それが、私の絵の欠点だと感じていた。


 行方の知れない線を引きながら、頭の中を整理しようと考える。この絡まった思考から、何かしら引くべき線を探し出したくて。


 彼は、アルバイトの帰りに、猛スピードで危険な運転をしていた車に轢かれて亡くなったのだと聞いていた。

 もしあの落書きが彼のものだったとしたら、別れの挨拶のような言葉を綴ったのはおかしいのではないか。

 全てが勘違いや思い違い、偶然の産物なのかもしれないけど。

 私は、彼の事などほとんど知らなかった。だから、答えは出ないのだ。


 ふっと手を止める。窓の外から狙いすましたかのように差し込んできた夕日が、白い紙の上を駆け巡るめちゃくちゃな線を色づけていた。

 そろそろ、帰らなければならない。他人と並んでいたら、私は人の出歩かない漆黒の田舎道を歩かねばならなくなる。


 クロッキー帳を畳む時に、ふともう一度そこに踊る絡まった線を見つめた。

 少しでもこの絡まった線を解く為に、せめても彼の事だけ、何か知ることは出来ないだろうか。

 パタン、と小さく音が鳴る。その音は、どこか私の決意を後押しするようだった。

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