第28話
建物の外観を改めて見てみると、不気味な洋館だった。そうは言ってもこじんまりしたもので、高さは二階までしかない。地面から伸び放題になった蔦が外壁に絡まり、森林の深い陰りと相まって、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。
憲明がいつになくビクビクしつつ、葉月に促されながらゆっくりと足を踏み入れる。それに従って、剣矢と和也も門扉を潜り抜けた。
葉月が壁際のスイッチを押し込んだ。ゆっくりと閉まっていく、観音開きの門扉。
それが閉まり切ると同時に、照明が点いた。赤い絨毯が敷き詰められ、石材でできた壁面や階段がひんやりとした空気を演出している。
一通り全員が周囲を見回したところで、葉月は語り出した。
「ここに来るのは、あたしも三回目だ。両親があたしを捨てた後、実は二人が、かつては羽振りがよかったことを知らされた。その頃に、別荘としてこの建物を買い取ったんだそうだ」
よくもまあ、こんな陰気臭い建物を。そう剣矢は思ったが、今は黙っておく。
「しかし、いざ生活に困窮して、売ろうと思ったが売れなかった。あれよあれよと親戚の手を回る間に、いつの間にかあたしの所有物になっていた、という具合だ」
「それで、ここで何をするんだ?」
剣矢が尋ねると、葉月は目をぱちくりさせた。
「決まっているだろう、作戦会議だ。本当はお前にもいてほしいんだが、まずは傷を癒して休んでくれ。また戦闘体勢を十分に活かせるように」
「それは分かったけど、どの部屋で休めば……?」
「そこの、右奥の部屋に空気マットを用意してある。前回来た時に持ち込んだから、まだ封は切っていない。埃は被ってないはずだから、後は――エレナ、手伝ってやってくれるか」
「え?」
突然の提案に、剣矢は間抜けな声を上げた。エレナも目を丸くしている。
が、今はぼさっとしている場合ではない。早く休んで、作戦会議に参加しなければ。
「エレナ、悪いけど手伝ってくれるか?」
剣矢が改めて尋ねる。エレナはいつも通り、やや頬を染めて俯きがちに頷いた。
「よし。それでは作戦の概要だが――」
※
葉月の声に押されるようにして、剣矢とエレナは指定された部屋に入った。埃っぽかったが、人の出入りを感知して空気清浄システムが起動。低い唸りを上げて、ほんの十数秒でまともに息ができるようになった。
「ああ、これか。空気マットって」
段ボール箱に入ったままのそれを見つけ、封を開ける。伸縮性の高い素材でできた、分厚い布状の物体。その横には、空気を入れるための循環器が付属していた。
バルブを繋ぎ、スイッチを入れる。ただそれだけだ。エレナに手伝ってもらうこともなかった。
俺は片膝を着いたまま、エレナに振り返った。
「悪いな、エレナ。特に手間をかけさせることはな――」
と言いかけて、俺の言葉は無理やり途切れさせられた。ちょうど自分の頭が、何か柔らかい、そして温かいものに包まれるのを感じる。
「エレ、ナ……?」
剣矢が、自分がエレナの胸に抱かれていることを悟るのに結構な時間を要した。
エレナの腕から逃れるべく、両手をエレナの肘に回す剣矢。しかし、その手が届くよりも早く、そしてより強く、エレナは剣矢の頭を抱きしめる。
何か喋ってくれ。何でもいい。何でもいいから、何を考えているのか教えてくれ。
剣矢は心からそう願った。言葉で伝えてもらわなければ、エレナが抱いている様々な心配事が、自分の胸までをも圧し潰してしまう。
「……やめてくれよエレナ」
しかし、剣矢には伝わってきた。エレナがふるふるとかぶりを振るのが。
放してくれと言ったところで無駄だろう。では、自分は一体どうしたらいいのだろうか。――仕方ない。
剣矢はそっと、エレナの手を握りながら立ち上がった。それに反発するように、エレナは剣矢の側頭部に込める力を強くする。だが、剣矢の方が力があるのは明らかだ。
ほんの数秒の駆け引きの後、エレナの手は剣矢から引き離された。すっとそのまま立ち上がる剣矢。
そして、今度は自分からエレナを自分の胸に引き寄せた。
はっ、とエレナが息を飲む気配がする。
「心配するなよ、エレナ。俺は必ず、ドクを仕留めて帰ってくる。エレナには、安全なところで見守っていてほしい。俺にとっても、お前は大切な仲間なんだ」
葉月と唇を重ねた時のことが思い返される。だが自分にとって、葉月に対する想いとエレナに対するそれは異なる。
葉月とは対等に付き合えるかもしれないが、エレナはまだ守ってやらなければ。いや、守ってやりたい。
だからこそ、今剣矢にできるのはエレナを抱きしめてやることだけだった。
「さあ、作戦会議に戻るんだ。皆、待ってるはずだぜ」
エレナは目を潤ませながらも、こくん、と頷き、小走りでドアへと向かっていった。
※
ゴーン、ゴーン、ゴーン――。
重厚な置時計の鐘の音が鳴り響く。剣矢はとても落ち着いた気持ちで、空気マットから身体を持ち上げた。
身体が、神経増強剤に順応していてくれたのだろう。どうやら十時間は眠っていたらしい。携帯端末を展開すると、そこには午後十一時との表示がある。
欠伸と共に背伸びをして、剣矢はその場で数回ジャンプした。身体の方は問題なさそうだ。またすぐにでも戦える。
「しっかし、腹が減ったな……」
そうぼやきながら退室し、皆がいるであろう場所を探す。
この洋館のメインエントランス、その中央にある幅の広い階段。その階段を挟んだ反対側の部屋から、皆の声が聞こえてきた。軽くノックすると、葉月の声がした。
「剣矢か? 身体は大丈夫か?」
「ああ。世話をかけたな。ところで、何か食い物――」
と言いかけた瞬間、勢いよく向こう側から扉が開いた。飛び出してきた小さな人影は、無言で剣矢の手を取り、部屋の中央に引っ張り込んだ。
「おう剣矢、ちょうどいい。今晩飯を食ってるところだ」
両手にサンドイッチを握らせた憲明が言う。
「エレナが作ってくれたんだ! 感謝しなきゃね」
「和也の言う通りだな、本当に。冷凍保存されていた食物だけで、これほど美味い夜食を作るとは……」
和也と葉月も言葉をかけてくる。
葉月と憲明の間に座らされた剣矢は、ようやく自分の手を握っている主、エレナから解放された。
その後、よい目覚めを味わった剣矢は、皆の立てた作戦の説明を頭に叩き込んだ。
確かに、自分たちにできるのはこれが精一杯だろう。
「で、これからどうする?」
「俺は寝るぞ」
「あたしもだ」
剣矢は拍子抜けした。
「お、起きたばっかりの俺はどうするんだよ?」
「羊の数でも数えたら? ほら、剣矢は標的を『羊』って言うじゃん」
そんなことを抜かす和也の頭を、剣矢は軽く小突いた。
「今まで仕留めてきた死人を思い出させるなよ」
「あっ、ご、ごめん」
そんな和也のリアクションに、剣矢は違和感を覚えた。同時に、自分の声が妙にか細くなっていることに気づく。
ふと顔を上げると、そこには葉月とエレナが、それぞれの目の高さから剣矢を見つめていた。
そうか、自分はもう残虐な殺人をしたくはないのだ。そう剣矢が気づけたのは、彼女たちのお陰だった。そして、彼女たちの願いでもあった。そこまで明確に自分の胸中を推し量れるほど、剣矢は大人ではなかったが。
※
翌日、午後八時。エントランスホールにて。
皆の士気は旺盛だった。適当にうつらうつらしながら日中を過ごした剣矢も、自然と気が引き締まるのを感じる。
「これより、出撃する。目標はドクただ一名。情けをかける必要はない。だが、人命は尊重してくれ。移動には一般的な乗用車を使う。一台目にあたしと剣矢とエレナ、二台目に憲明と和也。各々が別々なビルに展開するから、駐車時には警戒を怠らないように」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、葉月」
「何だ、剣矢?」
「エレナも連れていくのか?」
そう問うと、じとっ、とした目つきでエレナに睨まれた。だが、言うべきことは言っておかなければ。
「エレナは非戦闘員だぞ? むざむざ危険な戦場に連れ込まなくても……」
「エレナにも、あたしたちの戦いを見届ける権利がある。それに、現場にいてもらった方が、警察や消防の通信妨害も容易だ。これはエレナ自身の意志でもある」
そう言われてしまっては、反論の余地はない。
「他、質問は?」
今度こそ、誰も挙手しなかった。
「それでは、出撃」
淡々と、葉月がそう告げた。
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