第23話
「今だっ!」
葉月の口元めがけて、少年は飛び掛かった。
「っ!」
直後に気づいた葉月は、自分が殺されかかっていることを悟る。
息ができないこと、『殺せ!』と小声で聞こえたこと、そして何より、自分の口を封じる少年の血走った目。
それらが葉月に『死』を実感させたのだ。
いくら幼児の力と言っても、少年との体格差は如何ともし難い。葉月は四肢をバタつかせたが、相手が悪すぎる。
このまま自分は死ぬのだろうか?
葉月は思った。それはこの施設に入ってから、ずっと彼女の胸中にあった疑念だった。
誰に愛されるでもなく、増してや誰かを愛することすらできずに、自分は命を落とすのではないか。
もし葉月が、そうした『生』への感覚に疎かったなら、ここで彼女の人生は終わっていたはずだった。
しかし、彼女は選んだ。『生きる』と。
自分の左腕には、安価な栄養剤を体内に送り込むための点滴の針が刺さっている。
使わない手はない。葉月は少年の隙を突き、身体を捻じった。そして素早く右手で左腕の注射針を抜き、反転する勢いで思いっきり前方へ突き出した。
「ぎゃあっ!」
短い悲鳴と共に、生温かい液体が滴り落ち、自身に圧し掛かっていた力がなくなる。
注射針を握ったまま、葉月は身を起こした。そこにいたのは、横になってのたうち回る大柄な少年に、取り巻きの小柄な少年が二人。
「みっ、見えない! 目が痛い!」
タオルを自分の目に押し当てる少年を見て、葉月は自分でも驚くほど冷静だった。
今の注射針での攻撃は、一回きりだ。もう一度相手の目を刺さなければ、また立ち上がって襲い掛かってくるかもしれない。
葉月は攻勢に出た。逃げ出した取り巻き二人は無視。大柄な少年のそばに膝を着き、両腕で注射針を握って、思いっきり振り下ろした。
「うあぁあっ!」
ばらばらになった注射器の破片が、葉月の掌を切り傷だらけにする。しかし、この渾身の二発目によって、葉月は少年を行動不能にした。激痛のあまり、気を失ったのだ。
さて。
葉月は、最早誰のものかも分からない血を掌から滴らせ、次の武器を探した。
非力な自分でも、他者を殺傷できるだけの武器。それは、そばに倒れて転がっていた。点滴を吊るすための、金属製の棒だ。
「よいしょ……」
思わず声にしたその言葉。思ったより易々と持ち上がったそれを、葉月はできる限り高く振り上げた。そしてそれは、少年の頭蓋を陥没させるのに十分な威力を帯びていた。
これで、終わりだ。
そう葉月が心の中で呟いた、次の瞬間。
「止めなさい!」
そんな大声と共に、天井の照明が一斉に点灯した。事件を察知した職員が駆け込んできたのだ。
そこにいたのは、尻餅を着くように座り込んだ葉月。それと、目と頭部から出血する少年。
少年は即死には至らず、がたがたと痙攣していた。職員たちは、自分たちが一歩遅かったことに気づかされ呆然と立ち尽くした。
「あたし、殺されそうになったの」
『だから』と続け、葉月は口を閉ざした。
※
「それがきっかけで、お前のいた養護施設に警察が踏み込むことになったわけか」
葉月の過去をぽつりぽつりと復習してから、剣矢はそう言った。
「で、その大柄なガキは?」
「死んだっていう話は聞かないね、まだ。もし分かったら、ドクに教えてくれって頼んであるんだけど……。意識が戻らないのかな」
だとしたら気の毒な話だ。
もちろん、葉月に非はないだろう。自分が殺されるところだったのだから。しかしその少年とて、自分の明日の食い扶持を懸けて事に及んだのだ。
「引き取り手はいないんだろう、そのガキは」
こくりと頷く葉月。今の葉月は、剣矢と相対する形で部屋の隅に座り込み、膝を立てて顎を載せている。
「どうなっちまうのかな、そいつの人生」
と呟いてから、剣矢ははっとした。
「あっ、葉月、俺はお前を責めるつもりはないんだ。ただ――」
「だからあたしは、残酷な殺し方をしてほしくないんだよ、あんたに」
「……は?」
「あたしは随分酷いことをした。今だって、殺傷事件に手を染めてる。だけど、不必要なほど敵を苦しめることはないんじゃないか、って思うんだ。たとえそれが、剣矢の打つ注射の影響だったとしても」
「お前、俺が殺してきた連中に情けをかけるつもりか?」
「まさか」
葉月はふっと口元を緩め、ゆるゆるとかぶりを振った。
「死人を今更どうこうできるわけじゃない。ただ、未来は変えられる」
「未来……?」
「剣矢、これはあたしの我がままだよ。それは自覚してる。だけど……。今度からは、苦しまないように敵を殺してやってくれないか」
「ん……」
どう答えたものか。
まず、剣矢は『敵』と見做した相手には容赦するつもりはない。自分のみならず、葉月まで被弾したのだ。こんなことをする連中に罰を下したい。その気持ちは根強かった。
そして、もう一つ問題がある。件の注射だ。あれを打つと、自分で自分の闘争本能を制御できなくなる。その衝動を理性に置き換えれば、『どうすれば敵を残虐に殺すことができるか』という問題になってくる。それは確かに、剣矢本人にとっても問題ではあった。
考えが堂々巡りに陥ってしまう。そう判断した剣矢は、話題の変更を試みた。
「あのさ、葉月。警察が踏み込んできて、それからお前の身柄はどうなった?」
「身柄?」
「ああ、まだ聞いたことがなかった。別に話したくなければ――」
「構いやしないよ。話す」
そう言って、葉月はすっと息を吸い込んだ。
※
「信じられません、こんな幼児が殺人未遂を……」
「しかし防犯カメラの映像によれば、先に手を出したのは少年の方です」
「どう扱えばいいんだ、彼女を……」
その場に葉月がいないかのように、大人たちは彼女の処遇について話し合っていた。
あの事件があった翌朝、通報を受けた警察が葉月の身柄を確保し、県警本部まで移送。
同時に、養護施設の劣悪な環境が露見した。そこにいた子供たちは別な、まともな施設へと分散移転させられた。
話し合いが長引く中、葉月は包帯の巻かれた自分の両手を見つめていた。
本当に、この手が他人を殺しかけたのだろうか?
しかし、事態は急変した。その場に居合わせた警官の携帯端末に、連絡が入った時のことだ。
「はっ? 公安? 警視庁から? どういうことです?」
疑問符を頭上に浮かべる警官。しかし最後には、『了解、移送準備をさせます』と言って端末を仕舞った。
「葉月さん、また少し移動してもらうことになった。今みたいに、礼儀正しくしていてくれ」
無感情な目で相手を見つめつつ、葉月は頷いた。
移動と言っても、ただ部屋を移すだけだった。先ほどの警官の通話に出てきた『公安』と言う組織の人間が、向こうからこちらに出向いてくれるらしい。
ただし、その部屋は普通の会議室や事務室ではなかった。
重厚な金属製の扉の向こうには、コンクリート剥き出しの床、壁、天井があり、意外と狭い。中央に金属製のデスクと椅子があって、葉月は奥側に座るよう指示された。
「少しここで待っていなさい」
そう言われ、葉月は素直にすとん、と腰を下ろす。
それから十五分ほど経っただろうか。遮音されていた扉がギシッ、と鳴って、見たこともないような大男が入ってきた。
大男といっても、それは背丈だけ。肩幅は広いとは言えず、すっとマッチ棒が立っているような印象を受けた。決して若くはないが、どこか活き活きとしているように見える。
「やあ、美奈川葉月さん」
葉月は挨拶の仕方を知らず、ぼんやりと相手の目を見返した。
「本当なら私も名乗るべきなのだがね、わけあってあまり名乗ることができない。『ドク』とでも呼んでくれ」
「……ドク」
「そうだ、ドクだ。言葉は分かるね?」
葉月はゆっくりと頷いた。聞き取りと応答はできる。読み書きはさっぱりだが。
「君は今、重要な場所にいる。生きていく上で、大切なことを決めなければならないんだ」
唐突に投げつけられた事実に、葉月は椅子の上で後ずさった。背中が背もたれにぴったりとくっつく。
「一つ訊く。君は他人を助けるために、昨日の夜と同じことをする覚悟があるか?」
「……え?」
空気が葉月の喉から流れ出す。
「そうだな、悪党をやっつける、ということだ。私はその協力者を求めている。君を殺そうとした少年たちのような者たちを裁きたい。手伝ってはもらえないかね?」
葉月はそっと、自分の両手を見下ろした。今ここで頷けば、きっとまた自分は怪我をする。だが、人殺しを野放しにはできない。
「突然すまないね、しばらく考えてみてほしい」
そう言って、ドクはするりと退室した。
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