第22話


         ※


 実際のところ、憲明が剣矢を支えるというより、その逆だった。上半身にTシャツを羽織った剣矢が、壁に手を着きながら歩く憲明に肩を貸している。


「うっ……」

「大丈夫か、憲明?」

「ああ……。俺、ホラーは駄目なんだ……。お前が生き返った時には、ゾンビが出たと思ったぜ、全く……」

「ふぅん」

「なっ、何だよそのどうでもよさげなリアクション……。はあ……」


 覇気のない口調。剣矢は憲明の意外な弱点を見つけ、やや気持ちが楽になった。


「あ、ところで憲明、葉月には連絡行ってるのか? 俺が意識を取り戻したこと」

「んなわけねえだろう、歩いて三分の距離じゃねえか。直接会った方が早い」

「ん、まあ、な」


 剣矢はそう言って頷いた。が、いくらすぐに会える距離にいるからといって、ここはワンクッション置いた方がよかったのではないか。

 葉月は剣矢が死んでしまったと思って、取り乱しているのかもしれないのだから。


 葉月の部屋の前に着く頃には、辛うじて憲明は自分の足で歩けるようになっていた。

 もしかしたら、こうやって気を紛らわさせようというドクの謀だったのではないか?

 いずれにせよ、今の剣矢にできるのは、憲明が無事皆のいる医務室に帰り着けるよう祈ることだけだ。


「さて、と」


 剣矢は葉月の部屋の前に立った。インターフォンは、内側から一切の通信を拒絶されている。はて、どうしたものか。


「葉月? いたら返事をしてくれ。俺だ。剣矢だ」


 コンコン、とスライドドアを叩く剣矢。反応はない。


「今さっき目が覚めたんだ。その報告と、あと、礼を言いに来た。部屋に入れてくれないか?」


 その時、ポン、という軽い音と共に、インターフォンが点滅した。ドアがスライドし、向かいに立つ葉月の姿が目に入る。

 と同時、剣矢は葉月に襟首を掴まれ、一気に部屋に引っ張り込まれていた。すぐにドアは封鎖される。


「うおっ!」


 まだ身体が万全の状態でないからか、呆気なく足をかけられ、転倒する剣矢。そのままごろん、と転がされる要領で壁際に追いやられた。


「おい葉月、それが怪我人に――」


『怪我人に対する態度か』。そう言おうとして、剣矢は口を閉ざした。

 葉月がこちらに背を向けて、ぶるぶると震えていたからだ。


「な、なあ葉月、お前、大丈夫か……?」


 形勢逆転だが、取り敢えず剣矢は問うてみた。しかしまさか、葉月がここまで『荒れている』とは思わなかった。


 振り返った葉月。目は血走り、鼻息は荒く、唇を真一文字に結んでいる。肩は上下に揺すられ、拳も握り込まれていた。

 鎖骨のあたりまで血管が盛り上がって見え、顔全体が真っ赤に染まっている。


 そんな状態で、葉月は思いっきり息を吸い、怒声を浴びせかける――のかと思いきや。

 葉月はその息を、長く弱々しく吐き出し、ぺたん、とその場に尻をついてしまった。


「……剣矢? 本当に剣矢なの?」

「あ、ああ。一応な。生きてはいるみたいだから、俺は俺、ってことだろう」


 すると、葉月は掌と膝を床に着いて、のそのそと近づいてきた。

 そして何の躊躇いもなく、僅かな間さえ置かずに、再び自らの唇を剣矢のそれに合わせた。


 普段の剣矢なら、驚いて飛び退くところである。が、何故かその時は、その行為が機械的なもの、非感情的なものに思われた。


「そうか、やっぱりあんたは剣矢なんだね」

「唇で確認したのか?」

「うん。人工呼吸の時に、形は覚えたから」


 何じゃそりゃ、というのが剣矢の本心だ。人工呼吸中にそんな余裕があったとは思えないが。


「あんたを救出した後――ちょうど一時間くらい前のことだけど、お父様にはあたしが引導を渡したの」

「葉月がとどめを刺した、ってこと?」

「うん。動けずにいるようだったから、うなじに手榴弾をくっつけて、あんたを憲明と二人がかりで倉庫の陰に隠れたの。そして、ドカン」

「親父はどうなったんだ?」


 ここぞとばかりに、葉月は大袈裟に肩を竦めた。


「流石にあの位置で高性能爆薬を起爆されちゃあ、ルナリウム製の装甲版だってもたないよ。お父様はうなじを抉られて、出血多量で死亡。随分苦しんだみたいだけどね」

「そう、か。じゃあ、俺が吸血を行う暇もなかったわけだ」

「え?」


 その時になって、ようやく葉月の顔に人間らしさが浮かんだ。


「剣矢、あんた、今何て?」

「だから、情報を得られなくて惜しい、って。そう言ったんだけど」


 すると、パチン、といい音がした。剣矢が、自分の左頬が葉月に引っ叩かれたのだと気づくのに、少々時間を要した。


「あんた、まだ戦うつもりなの?」

「まだ? まだって言われたって……」

「あんた、今回ばかりは本当に危なかったんだよ? もう戦いなんて止めて、新しい暮らしを考えたら? 目標だったお父様の殺害に成功したんだから、そろそろ潮時ってもんでしょう? エレナだって心配してるんだよ? あんたが心の底から、殺人を楽しむようになってしまったら……」

「ちょっと待て」


 剣矢は掌を葉月に突きつけた。


「どうして今の会話にエレナが出てきたんだ?」

「そっ、それは……」


 葉月の視線は、目まぐるしく変化した。遠近感なんか滅茶苦茶なんじゃないかと、剣矢が心配するほどに。


「エ、エレナがあんたのことを好きだから、エレナが心配してるってことを、エレナの代わりに伝えようって……。エレナ、口が利けないし――」

「どうして自分の言葉にしないんだ?」


 その剣矢の声は、重苦しい雰囲気を纏っていた。


「葉月、さっきからお前、エレナ、エレナってそればっかりだぞ。お前自身はどうなんだ」

「ど、どうって?」


 訊き返され、今度は剣矢が返答に窮した。自分たちは何を見、何を聞き、何に悩んでいるのだろう?


 言葉を繋いだのは、葉月の方だった。


「だ、だって……。いや、でも、そんなんじゃなくて……」

「好きだとは言ってくれないのか」

「えっ」


 ん? 自分は今、何を言った? 剣矢の脳裏の一瞬の隙間から出た、『好き』と言う言葉。

 それがとんでもなく重い言葉であると悟るのに、剣矢の恋愛経験はあまりにも貧弱だった。


 そしてそれは、葉月にも言えることだった。


         ※


 十七年前、三月某日。

 

「ここで、いいかしらね?」

「ああ。結局、俺たちには育てられなかったな。産まれて二週間でこんな目に遭う彼女も彼女だが」

「せめて今くらいは、名前を呼んであげてよ、あなた。ね、葉月?」


 乳幼児保護施設の前で、一組の男女が話し合っている。女性が赤ん坊の入ったゆりかごを手にし、男性が女性の頭上に傘を掲げていた。小雨がぱらつき、色づき始めた桜の蕾を濡らしている。


「それじゃあ……」

「ああ、そうだな。いい人に拾ってもらえることを祈って」


 軽く頬ずりし、女性がそっとゆりかごを施設正面玄関前に置く。


「さあ、行くぞ。職員と顔を合わせたら厄介だ」

「え、ええ、そうね」


 ハンカチを目元に当てる女性の肩を抱くようにして、男性がこの場を去るように促す。こうして、『美奈川葉月』というネームカードと共に、赤ん坊は置き去りにされた。


 こうして、葉月は施設で育つことになった。施設は経営難で、まともな食事が出ることも少なく、朝と夕の食事の時間帯には、僅かな食糧を求めて子供たちが傷つけあった。流血沙汰もしばしばである。


 流石に突然、葉月をそんな場所に放り込むのは、施設側の人間にも抵抗があったのだろう。

 だがそれも、葉月が四歳の誕生日(正しくは入所日)を迎えるまでのことだった。


 その前日の深夜のことである。


「いいか? 騒がせるなよ」

「ああ、分かってる」

「明日から俺たちの取り分が減っちまうなんて、許せない」


 そう囁き合いながら、児童区画から乳幼児区画へ移動する影が三つ。いずれも六歳の男子児童だ。

 先頭の、一番体格のいい児童がタオルを握り、小柄な二人がついていく。


 廊下に沿って配されたガラス窓を通して、その反対側にいる乳幼児に視線を走らせる。

 そして、


「シッ!」


 一人が気づいた。


「えっと……読み方が分からないけど、確かこの漢字だ」

「みながわはづき、だろ? よし、前に回り込むぞ」


 先頭の男子が順番を交代した。まずは、予め盗んでおいた鍵を使い、乳幼児区画に侵入しなければ。

 しばらく進み、扉のノブに手をかける。男子が鍵を差し込むと、見事にカチリ、と開錠に成功した。資金不足で施設のセキュリティが甘いところを突かれた形だ。


「よし、俺がやる。お前ら二人は、葉月の両手足を押さえるんだ」

「うん」

「わ、分かった」


 男子たちの動きは実にスムーズだった。じりじりと葉月の寝かされたベッドに近づいていく。そして大柄な少年は、真正面から葉月の顔を捉えた。

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