第21話
予想通り、尚矢はこちらに突進してきた。地面すれすれを滑空するようにして、右腕を引き絞る。殴りつける気か? 上等だ。
そう思った剣矢は、大きく真上に跳躍した。尚矢からすれば、真下から剣矢を狙えるのだから有利に立ったと思っただろう。
だが、殴り破ろうとした倉庫の外壁が、突然消え去った。正確には、外壁が微弱な爆薬で破砕されたのだ。
「むっ!」
尚矢は勢い余って倉庫に突入し、辛うじて転倒を免れた。ブレーキに使った両足の底から、アスファルト片が舞い上がる。
「和也、今だ!」
すると復唱よりも先に、があん、という鈍い音がした。剣矢は倉庫には突入せず、外壁に背を当てながらしゃがみ込んでいる。和也の射線から逃れるためだ。
「な、何だこれは⁉」
尚矢の声が合図だった。剣矢は背後から小振りの人工呼吸器を取り出し、口と鼻に当てる。そして立ち上がって跳躍し、先ほど尚矢が殴り破った壁面の上にあるシャッターに手をかけた。
「ふっ!」
指をかけ、体重に任せて落下。すると、シャッターは見事に下がり切り、倉庫は密閉された状態となった。和也の銃撃による穴は、無視してもいいくらいの空気の流れしか起こさない。
「貴様、このスーツの弱点を……!」
「ま、俺だって人工呼吸器が必要だけどな。あとは、あんたが窒息するのをじっくり拝見することにする」
尚矢は、その時になって初めて息子が――錐山剣矢が復讐鬼と化したことを理解した。
「くっ、くそぉっ!」
冷静な思考を放棄したのか、尚矢は剣矢に、再び殴打せんと向かってきた。
余裕を見せつけてはいたが、剣矢とて楽勝だとは思っていなかった。もしここで自分が回避したら、せっかく封鎖したシャッターがぶち破られて、再び尚矢はまともな呼吸が可能になってしまう。
「させるかあっ!」
剣矢は思いっきり床を踏みつけた。すると、それに連動して粘性のある液体がびちゃり、と尚矢に降りかかった。
「ぐあっ! 今度は何だ⁉」
これは、剣矢の即興のアイディアだった。この倉庫の天井から、廃液を地面に送り出すポンプがある。それを逆流させて、どろどろになった有毒な廃液を、尚矢の頭上からぶちまけてやろうという作戦だ。
「がはっ! 息が……息ができない!」
徐々に二酸化炭素が効果を表してきたらしい。あとは尚矢を半殺しにして、吸血行為を行えばいい。
自分の家族を滅茶苦茶にしたのは一体何者だったのか。それを確かめてから、ゆっくり尚矢を殺してやる。
ひざまずき、喉を掻きむしろうとする尚矢。正直、それだけで見物だったが、今は立派な任務中だ。残り時間は、ざっと五分弱。余分な時間はない。
剣矢は尚矢に向かって駆けだした。スーツのヘルメットに向かって、回転蹴りを食らわす。これで尚矢を気絶させてヘルメットを脱がせ、吸血を行おうとした。だが、剣矢の油断、あるいは尚矢の意地が、状況を悪化させることになった。
「ふんっ!」
「ぐあっ⁉」
剣矢の足が、尚矢に掴まれたのだ。
もう意識が朦朧としているようだが、それでも戦意を失ってはいないらしい。剣矢は呆気なく放り投げられ、シャッターを破って倉庫の外に転がり出た。
その後を追って、尚矢が歩み出てくる。
「死ぬのはお前だけでいい!」
すると、尚矢の左腕からワイヤーが射出された。なんとか身を翻す剣矢。
お陰でワイヤー先端の銛を回避することには成功した。しかし、ぐるりと右足を捕らえられてしまった。
「もらったぞ、剣矢!」
再び滑空した尚矢は、転倒した剣矢を引っ張り上げ、その首を掴み込んだ。
「がっ、はっ……!」
戦闘可能時間、残り二分半。だがその前に、首を握り潰されてやられてしまう。
なんとか手足をばたつかせるが、尚矢の腕は万力のようで、緩みはしない。
「楽には殺さんぞ、剣矢!」
その言葉通り、尚矢はあっさりと剣矢を手離した。否、放り投げた。
「ッ!」
意識が朦朧としていた剣矢は、呆気なく宙を舞い、アスファルトに身体側面を強打。そのまま転がり、気づいた時には海面下に没していた。
それでも、自分の身体にはワイヤーが巻きついている。これを辿れば、自身を海面上に引き上げることができる。
それが、甘かった。
未だ感じたことのない激痛が、剣矢の全身を震わせた。
「―――――――!」
海水が肺にまで逆流するが、それすら問題にならないほどの、痺れを伴った痛み。
まさか、ワイヤー越しに電撃を発しているのか。
《どうだ、苦しいか、剣矢!》
「⁉」
尚矢の声に伴う驚きによって、なんとか意識を繋ぎとめる剣矢。そうか、尚矢は剣矢たちの通信に割り込んだのだ。
《私を嬲り殺しにするつもりだったんだろう? 形勢逆転だな! こちらのスーツもガタが来ているが、お前の身体だって無事では済むまい! このままじっくり炙ってやるぞ!》
もう少し。あともう少しだったんだ。母さん、あなたの仇を討てるまで。人間の皮を被った化け物を始末する直前までいったんだ。だが、しかし――。
五感が利かなくなり、全身の筋肉が意思に関わらず痙攣している。痛みはもう感じられず、やや息苦しさを覚えるばかり。
真っ暗になった視界に、笑顔の母親と尚矢――父親と呼ぶのに抵抗のなかった頃の尚矢がいっぱいに映る。これが走馬灯というやつなのだろう。
ここまでか。剣矢が生を諦めかけた、次の瞬間だった。
唐突に、電撃が止んだ。
《なっ、何だ⁉》
尚矢の動揺する声と共に、五感が取り戻される。
「がぼっ! ぐはっ……」
何らかの力でワイヤーが引き上げられ、剣矢は海面に顔を出すことに成功した。
「ぐっ、ぐあっ! がっ……」
全身が痛みを訴える。息ができない。それでも肺は酸素を求め、胸を圧迫している。
《和也、あたしに構わず援護射撃を!》
何だ、今の声は? ヘッドセットから聞こえたが、まさか――。
「は……づき……?」
呻くようにそう呟く。すると、見慣れた顔が視界の中央に入ってきた。
そしてその唇が、問答無用で自分の唇に重ねられた。
「葉月! 馬鹿やってんじゃねえ! 人工呼吸は後回しだ、剣矢は俺が担ぐから、お前は先に裏手に回れ!」
葉月はすぐさま立ち上がり、剣矢の視界から消えた。同時に、憲明と思しき厳つい顔が視界に入ってきて、剣矢の身体を軽々と持ち上げた。
ああ、そうか。和也が狙撃で、剣矢と尚矢を繋いでいたワイヤーを切断したのだ。
流石に対戦車ライフル相手では、パワードスーツも無事では済まない。普段なら、その機動性能を活かして回避するところだろう。
しかし、二酸化炭素を吸わされたせいで動きが鈍り、回避不可能になったのだ。
「どどめを刺してやる!」
「っておい、葉月!」
直後、剣矢の身体は憲明に守られた。そして、どこか遠くで爆発音がしたような気がした瞬間、剣矢の意識はぷつん、と切れた。
※
「……ッ!」
「もうよせ、葉月」
「放して、放してよ、憲明!」
バシン、と誰かが誰かを突き飛ばす気配がする。朧げな気配と音から、剣矢はそう判断した。
次の瞬間、視界が真っ暗になる。そして再び、唇に押し当てられる柔らかい感触。
「剣矢はもう――」
「馬鹿言わないで! 剣矢がそう簡単に死ぬわけないじゃない! 死ぬ、なんて、そんな……!」
ぽつぽつと、何かが滴ってくる。それが、自分に人工呼吸を施した人物の涙であると判断する間に、剣矢は再び担ぎ上げられた。最後に目に入ったのは、海沿いの倉庫街だった。
※
「……! ……や、剣矢!」
「離れるんだ、葉月くん。電気ショックを施すから。行くぞ、五、四、三――」
「ぶはっ!」
「どわあぁあっ!」
同時に様々な出来事が起こり、剣矢は慌てて上半身を起こした。
「はあっ! はあ、はあ、はあ、はあ……」
「けっ、けけけ剣矢! お、お前、どうして生きてるんだ⁉」
「俺は、一体……?」
「剣矢! 憲明が驚くのも無理ないよ! 君は心肺停止でドクの下へ運び込まれたんだ」
「心配……停止……」
いつもの、ドクの医務室だ。
上半身の衣服は脱がされている。何か着るものを、などと呑気なことを考えてつつ、あたりを見渡す。
憲明は壁に背を貼りつけ、剣矢と同じくらい呼吸を荒げている。和也はやや落ち着いた様子で、安堵感を漂わせている。ドクはふむふむ、と頷きながら機材を仕舞っている。エレナは目を赤くして、ベッドの端を掴んでいる。
「いやあ、よく気づいてくれたな、剣矢くん。日頃の鍛錬と精神増強剤のお陰だろう」
そう告げるドク。剣矢は間抜けに口を開けたまま、『あ』と喉で音を出した。
「は、葉月は? ここにはいないみたいですけど」
「ああ、君が死んでしまったと思って、自室に引きこもっているよ」
「え」
あれ? 自分を最後まで救おうとしていた葉月が、『剣矢は死んだ』と思ったのか?
どういうわけだろう。
「ドク、俺はもう歩けそうですか?」
「ん? ああ、支障はないが……。そうだな、憲明くん! 付き添ってあげたまえ」
驚きの抜けきらない顔で、憲明はこくこくと頷いた。
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