第17話

 思わず剣矢は唾を飲んだ。小野和也……。こいつはこいつで、悲惨な目に遭っている。


         ※


「ヨーロッパって寒いんだね、お姉ちゃん!」

「そうだね、和也。このあたりは、日本の北海道より寒いんだよ」

「えっ、本当? 本当なの⁉」

「嘘ついてどうするのよ」


 くすくすと、手袋で覆った手を口元に遣る少女。そばを歩くのは、言う間でもなく幼い日の和也だ。レンガ畳の歩道を、決まった色を踏みながら和也は歩く。


 今から五年ほど前、秋口の頃。秋と言っても、ヨーロッパ北部では既に街路樹は茶色に代わり、ぱさりぱさりと歩道に降りかかっていた。粉雪が、ちらほらと混じっている。


 やや年の離れた弟である和也にとって、姉はいつも頼りになる存在だった。有色人種であることを責められても毅然としているし、初対面の相手にも物怖じしない。

 いじめられている和也を助けて喧嘩をし、顔中を腫らして帰宅したこともあった。


 家族として、友人として、和也にとって姉はかけがえのない存在だった。いや、憧れだった。


 何故彼女の名前が英国名で、弟の名前が『オノ・カズヤ』なのか。理由は簡単で、父親が日本人だからだ。母親はイギリス人だが、どうやらイギリス人らしさは姉に、日本人らしさは和也に受け継がれたらしい。

 

 ブロンド髪でやや青い瞳の姉に対し、和也の髪はほぼ真っ黒で、瞳は茶色い。


「ねえ、お姉ちゃん。どうすれば僕、お姉ちゃんみたいな綺麗な髪と目になれるのかなあ?」

「あら、嬉しいわね。綺麗だなんて」


 軽く和也の頭に手を載せる姉。


「でもね、和也。お父さん、そろそろお母さんたちと一緒に日本で暮らそう、って言ってるでしょう?」

「えっ? そうなの?」

「あら、和也は知らなかったのね。今度のお父さんの仕事先、アジアの方なんですって。だったら、日本に住むのがちょうどいいと思わない?」

「そ、そうだね……」


 和也は、しかし素直に喜べなかった。

 今は自分が余所者扱いされているが、今度は欧州風の姿の姉が馬鹿にされたり、排斥されたりするかもしれない。

 それが心配だったのだ。


「大丈夫だよ、和也」


 そう言って、再び手を和也の頭に載せる。


「私だって日本語の勉強はしてるし、お父さんから作法は習ってるし。お母さんも一緒だから大丈夫――」


 と言い終える直前だった。突然、姉の身体が勢いよく吹っ飛んだのは。


『え』と口にしようとした瞬間、和也の身体も宙を舞っていた。耳がキィン、と鳴ってその働きが失われる。それでも、周辺の乗用車の防犯ブザーが鳴り響いているのは聞こえた。


 ばたん、と無造作に、アスファルトに打ち付けられる和也。強烈な煙臭さ、全身を苛む切り傷の痛み、凄まじい脱力感。

 それでも、和也は顔を上げ、見た。見てしまった。姉の姿を。


 姉は、こちらに後頭部を向けている。それは、和也にとって幸いだった。彼女の身体は、可燃性の液体によって足元から焼けていくところだったのだから。


 姉の身体が、燃えていく。足元から、炭になっていく。和也の好きだったブロンドの髪は、一瞬で燃え上がり――和也の記憶はそこで切れた。


         ※


「後から聞いたけど、随分ひどい爆発だったそうだよ。車はひっくり返るわ、ビルの外壁は崩れるわ、道路は陥没するわ……。爆発じゃなくて、そっちの、えっと、二次被害、って言うんだっけ? その方が、被害者が多かったみたいだ」


 その後、世界各国の諜報機関が調査にあたった結果、複数の事実が明らかになった。

 この爆発は人為的なもの、すなわち爆弾テロであること。

 同時刻、警察や消防の混乱に乗じて、兵器の密輸が行われたこと。

 その兵器の精密部品の設計は、日本のベンチャー企業が請け負っていたこと、など。


 ただし、最後の一つは確証には至らなかった。そもそも、その企業の技術者たちに、自分たちが兵器の開発に携わっていたという認識があったかどうか。

 それが問われてしまうと、誰もが責任の所在を曖昧にせざるをえなかった。


 日本の親戚に引き取られた和也は、当然ながら幸福とは無縁の暮らしを強いられた。

 別に虐待やいじめに遭ったわけではない。皆、優しくはしてくれた。しかしそれは、腫れ物に触れるような感覚であり、和也にとっては優しすぎた。


『ご両親を責めてはいけないよ』

『お姉さんのことは忘れなさい』


 などと言われる度に、和也の心はやつれ、抉られ、壊死させられていった。


 そんなある日のことである。


 その日も散々、周囲の人間に気遣われながら、和也は通学路を家に向かっていた。

 和也の両親は、件の兵器密売の関係者として疑われ、ヨーロッパ某国で調査を受けている。

 実質的に、和也は家族全員を喪ってしまったのだ。


 もう涙も出ない、と思ったその時。

 ぽつり、と一粒の水滴が、和也の長い前髪を伝って、地面に落ちた。

 ふと空を見上げると、いつの間にか暗雲が立ち込めていた。そうか、これが日本の『俄雨』というものか。


 特に急ぐでもなく、しかし完全にびしょ濡れになるのを避けるため、和也はバス停の陰に身を寄せた。

 どうしてびしょ濡れになるのを嫌ったか。純粋に、これ以上の心配を親戚にかけたくなかったからだ。


 そんな空っぽの心でいたからだろう、隣に滑り込んできた人影に、和也は全く気づかなかった。


「うわっ⁉」

「伏せろ、少年!」


 突然声をかけられ、スライディングまで食らわされて、挙句頭部をぐいっと押さえ込まれた。

 何だ? 何が起きている?


 顔を起こそうとするが、身動きが取れない。

 だが、目の前に小さな金属片が降り注いでくるのを見て、和也は気づいた。


 自分を押さえつけている人物は、自動小銃で武装している。消音器が取り付けられているが、耳元で撃たれては消音も何もあったものではない。


 そこまで分析してから、和也はようやく、自動小銃の持ち主が、自分同じ中学校の制服を纏っていることに気づいた。ただし、自分は一年生、彼女は三年生だ。


 ん? 待てよ?


「女……?」

「質問にはちゃんと答えてやる。後でな。今はとにかく伏せていろ」

「……」

「早く!」

「はっ、はいっ!」


 何故、和也の反応が遅れたのか。

 パニックの一歩手前に陥り、脳が一時的に機能を停止していたから。それはある。

 だが、一番の原因は、戦闘中の少女の横顔に見とれてしまったからだ。


 真っ黒な、艶のあるポニーテール。日本人らしい、茶色の瞳。これだけであれば、『似ている』とは思わなかっただろう。

 だが、その鋭い目つきには見覚えがあった。


 和也をいじめの最中から引っ張り出し、いじめっ子たちを返り討ちにして見せた、戦う女性。そう、その少女は、和也にしてみれば喪った姉にそっくりだったのだ。


 幸い、この周辺の土地のほとんどは農地が占めており、しかも雨天。無関係の人間が、この何らかの戦闘に巻き込まれる可能性は低かった。


《葉月、あとは俺が仕留める! 憲明と合流して、周辺に死傷者がいないか確かめろ!》

「了解だ、剣矢!」


 すると少女――葉月は、『立てるか?』と尋ねながらも無理やり和也を引っ張り立たせた。


「ついて来い」

「うあ! ちょっと……!」


 雨でぬかるんだ泥の地面を、葉月は難なく走っていく。しかも、転びかけた和也を引っ張りながらだ。


 そんな中、遠くからバタタタッ、バタタタッ、と重い銃撃音が響き渡ってきた。どうやら、葉月の味方による銃声らしい。

 そのまま走っていると、その人物が目に入ってきた。制服ではなく、防弾ベストやコンバットブーツを着用している。そして、極めて大柄だ。


「憲明、剣矢は?」

「ああ、無事撤退準備に入った。俺たちも頃合い……って、どうしたんだ、そのガキは?」

「ッ!」


 この時ほど、和也が誰かを殴りつけたくなった瞬間はない。ガキだと? お前だってまだまだ若いじゃないか。


 だが、と和也は考える。

 憲明と呼ばれたこの少年の手にした大型自動小銃からは、紛れもなく硝煙が立ち上り、火薬の臭いもしている。サバイバルゲームに興じていたわけでないのは確かだ。

 それを確かめた直後、和也は自分でも気づかないうちに、泥に両膝を着いていた。


「ぼ、僕を仲間に入れてくれ!」


 三人の間で、時間が止まった。

 たっぷり十数秒の沈黙はあったと思われる。


「な、なあ葉月、ここまで来る途中に、コイツ頭でも打ったか?」

「ああ、否定はできない。咄嗟に伏せさせたもんだからな」

「そう堂々と言わないでくれ」


 憲明は腰に手を当てたまま、『立てよ』と一言。

 和也が俯きがちに立ち上がると、憲明はぐいっとその顔を近づけた。

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