第14話

「な、なあ、葉月」

「何だ」

「その……昨日のこと、大丈夫か?」


 自分でも意外なほど委縮した声で、剣矢は尋ねていた。無礼な質問だとは分かっている。それでも葉月の返答を求めるあまり、ごくり、と露骨に唾を飲んでしまった。


 だが、しかし。


「知らん」

「……は?」

「知らんと言ったんだ、阿呆」

「あ、阿呆って……」


 謎の深まりかねない返答に、剣矢は必死に脳みそを回転させた。


「あたしにまともな恋愛経験はない。知っているはずだぞ、剣矢。あたしの過去は」


 どん、と突き飛ばされるような衝撃が、葉月から発せられた。もちろん、それは剣矢の錯覚だ。だが、彼女の過去を思い返し、剣矢は黙らざるを得なかった。

 それは今考えることではない。思い出そうものなら、葉月本人よりも先に、剣矢の方が頭がおかしくなってしまいそうだ。


 このまま元の話題に戻り、和也とのことを話すのも賢明ではないだろう。そう判断した剣矢は、以前の、自身に関することについて話してみることにした。


「この前のことだけどさ、葉月。俺の『羊』の殺し方が酷い、って言ってたよな」


 すると、ぴくり、と葉月の手が止まった。


「どういう意味なんだ。あんな奴ら、酷い目に遭わされて当然だろう? 善の笠に入って、多くの無垢な人々を殺したんだぞ? その被害者には、俺のお袋だって入ってる。それに、連中には独自の連携体制がある。それを潰すんだったら、『こんな酷い目に遭うんだぞ』って見せつけてやるのが一番いい。葉月は冷静だから、こんな私怨じみた話、聞きたくもないだろうが――」

「黙れっ‼」


 唐突な葉月の絶叫に、剣矢は今度こそ身を引いた。たたらを踏んで二、三歩後退し、危うくすっ転びかけた。

 すると、こちらに背を向けていた葉月が振り返り、やや厚くなった涙の膜の向こうから、真っ直ぐに剣矢を見つめた。


「す、すまない、あたしとしたことが、つい感情的に……」

「ああ、いや、俺は大丈夫だけど……」


 気まずい沈黙が、会議室に張り詰めた。

 それを破ったのは、暢気な声で後ろの扉からやって来た憲明である。


「ういーっす。準備、手伝うか?」

「い、いや、俺と葉月で大丈夫だ」

「ん。じゃあ頼むわ」


 炭酸飲料の缶を開ける憲明。

 彼が先ほどの一幕をひっそり聞いていたことには、剣矢も葉月も気づいていなかった。


 憲明の自負する、このチームでの自分の役割。それは、一言で言えば『調整』だ。

 決して見下しているわけではないが、憲明からすれば、他のメンバーはやや感情的になりやすいように思われる。特に和也は。


 今さっき、葉月が叫んだのには驚かされたが、あり得ないことではない。

 それに、剣矢もやや葉月に惹かれている部分があるようにも察せられる。

 それらの事実が作戦に悪影響を及ぼすことのないよう、自分の立ち位置を微調整しているのが、今の憲明だ。


 まあ、それでも和也の傍若無人な振る舞いはどうにもならないが。

 その和也が、妙に落ち着いた風で会議室に踏み込んでくるのと、立体プロジェクターが起動するのはほぼ同時だった。


 時刻表示は、午前九時五十八分。もうじきだな、と、憲明は軽く息をついた。


 慌てて駆け込んできた和也に席を譲る憲明。剣矢はその反対隣に座り、葉月はディスプレイわきに立ったまま、映像が表示されるのを今か今かと待っている。


 ディスプレイの右上の時刻表示が、午前十時を示したまさにその瞬間。

 ヴン、と微かな振動と共に、映像が映し出された。がたん、という音がしたが、誰も振り返りはしない。剣矢が腕をついて立ち上がったに違いないからだ。


 そこに映っていたのは、妙に白い肌をした中年男性だった。こけた頬と落ち窪んだ目が、剣矢に似ている。違うのは、口元に穏やかな笑みを浮かべている、ということだ。


《久し振りだな、剣矢。差し詰め七年ぶり、といったところか?》

「ぐっ……」


 怒号を飛ばさなかったのは、剣矢が如何に辛抱強い人間であるかを見事に証明していた。

 剣矢本人からすれば、尚矢に対して、いくらでも罵倒のしようはあった。『人殺し』『テロリスト』『人の皮を被った悪魔』――。

 しかし、剣矢は沈黙している。


《おや? おかしいな……。私の知っている剣矢は、もっと怒りっぽかったはずだが?》

「……」

《そうそう、母さんがお前の幼稚園の制服にジュースを零しちゃった時のこと、覚えてるか?》

「……」

《お前、随分泣き喚いただろう。せっかくの制服がオレンジ臭くなっちゃう、ってな。凄い怒り様だったんだぞ? 母さんにビンタして……。覚えてないのか?》


 ここまでは挑発だ。『母さん』という言葉を連発して、剣矢の逆鱗に触れようとしている。剣矢はテーブルの上で、ぎゅっと拳を握り締めた。


《ふん、まあいい。そろそろ仕事の話といこうか》


 つと、皆が目を上げる。『仕事』――自分たちに宛てられた『挑戦状』のことだろう。


《君らが逃げ出すか、あるいは敗北を喫した場合、最寄りの地下鉄を爆破する。規模は小さいが、数名の死者と、数日間の交通麻痺を想定している。生憎、場所を教えることはできない》

「ブラフだ」


 淡々と言い切ったのは憲明である。


「あんたらにそれだけの作戦遂行能力があるか、知れたもんじゃない」

《では証明しよう》


 すると、尚矢はケーブルの付いたスイッチを取り出した。随分と古風な仕掛けである。

 そのスイッチに、尚矢は指をかけた。


《サブディスプレイに、監視カメラの映像を出してみろ。市立西公園の、P-309だ》


 葉月が素早くキーボードを打ち込む。すると、もう一つの立体ディスプレイに、何もない広場の映像が映った。道行く人も疎らである。


《死傷者は出ないから安心しろ。行くぞ。五、四、三、二、一、零》


 ぐっとスイッチを押し込む尚矢。するとすぐさま、サブディスプレイ端に映っていたゴミ箱が、ばごん、と吹っ飛んだ。

 なるほど、本気と言うわけか――。剣矢の頬を、嫌な汗が流れた。


《無論、本番ではこうはいかんぞ。爆薬の量が桁違いだからな》

「俺たちが勝てば、爆弾テロは決行されないんだな?」

《当然だとも。私は昔から、隠し事が苦手だったからな。お前なら分かるだろう、剣矢?》


 確かに、それは認めるしかない。


《しかし、妙だと思わないか、諸君?》


 唐突に、尚矢が尋ねてくる。無言で目を上げた皆を、それぞれ一瞥していく尚矢。


《どうして私の存在が、ダリ・マドゥーから流れたのか。私と彼の間に、どんな関係があったのか》


 言われてみれば、というのが、剣矢たちの素直な感想だった。剣矢は愚直に、『何があったんだ?』と問い返した。


《マドゥーは数年前から、日本を麻薬密売の一大拠点にしようとしていた。私は、まあ戦ってもらえば分かるが、新素材や材質加工の軍事的応用も兼ねた研究がしたかった。そこで、入れ替わったのさ。私は南米の研究組織に出向き、マドゥーは日本に来た。こうして互いの立場を逆転させて、インターポールや警視庁、FBIの操作を攪乱した》


『なあに、そんな難しいことじゃない。優秀なバックアップがついていたんでね』――尚矢はそう言って、口元を緩ませた。


《しかし、昨日の午前中に、マドゥーは早々に君たちに討ち取られてしまったというじゃないか! だったら次は私の番だ。今から言う住所に、時間通りに来てくれ。武器は、誰が何を使っても文句は言わない。私は一人で、ただし完全武装で君らを待つ。いいかね?》


 告げられたのは、最寄りの埠頭の倉庫街だった。廃棄されて久しい、ボロ屋敷が並んでいる。

 伝えられた時刻は午後十時。『出来得る限り、全力で立ち向かってきてほしい』とのこと。


「随分と大口を叩くんだな。人が変わったみたいだ」

《そうとも、剣矢。人は変わっていくものだ。自らの信じる方へと、な》


『では、諸君との遭遇を楽しみにしている』――そう言って、尚矢の映像はぷつん、と消えた。


 すかさず憲明が、剣矢の肩に手を載せる。


「剣矢、大丈夫か?」

「どう見える?」

「まあ、落ち着いてるようには見えるがな……」

「なら、そうなんだろう」


 そう素っ気なく言い放ち、剣矢は振り返って会議室を真っ先に退室した。

 

「憲明、剣矢は大丈夫なのか?」

「ああ、あの調子なら大丈夫だろうだがな、葉月。しかし、いざという時は俺たちがあいつを止めてやらねばならないかもしれん」

「了解した」

「ふむ」


 本当に了解しているのか? それが疑問だったが、憲明は葉月(とそれに付き添う和也)の背中を見送ることしかできなかった。

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