第5話

 エレナは、口を利くことができない。先天的な障害ではなく後天的なもの、すなわちショックによるものだ。

 それを思い出し、顔を顰める剣矢。そんな彼に構わず、とてててて、とエレナは来た道を引き返していった。きっと『機材』の準備を行うのだ。


 剣矢が吸血行為によって得た、敵の記憶。それを取り出すには、特殊な処置を施し、摂取した血液を脳に集中させる必要がある。

 当然、これは剣矢の体力を大いに奪う。葉月が心配していたのは、まさにこのことだ。


 剣矢が死ぬことはないだろう。ドクが監督しているのだから。しかし、それでも剣矢はしばらく動けなくなる。手の指一本動かせるかどうか、というレベルにまで、身体活動が制限されるのだ。


 剣矢自身よりもそのことを案じているのが他のチームメンバーである。だが、剣矢の意見に反対することは滅多にない。剣矢の過去を知っているからだ。

 剣矢の過去というものは、ドクも承知しているところである。

 それでも、先ほどのエレベーター内での葉月の壁ドンには、皆が驚かされた。あまりにも感情的で大胆な行動だった。


 何とはなしに、皆が剣矢の記憶抽出室、通称『処置室』の前に集まっていた。そんな呼び方は止めてくれと、剣矢自身は思っている。かつてのアウシュビッツ収容所を連想してしまうからだ。

 歴史をひっくり返せば、似たように残虐非道な施設は数えきれないほどあるのだろうとは思うけれど。


 そんな剣矢の横で、葉月が残る二人の方へ振り返った。


「よし、総員今晩中に、今回の作戦のレポートを上げてくれ」

「えーっ? 紙に書けってこと? そりゃないよぉ、葉月ぃ!」

「黙って従え、和也。手書きの報告書ってのも、頭の整理に繋がるんだ。地道な鍛錬の一種だと思え」

「だったら僕、アイリーンの整備をするよ!」


 その言葉に、憲明はやれやれと肩を落とした。『アイリーン』とは、和也の愛用している狙撃銃の名前だ。無論、その名で銃を呼ぶのは和也だけだが。しかし、

 

「和也、葉月の命令が聞けねえのか?」

「うっ」


 やや言葉を崩し、語気を強めた憲明を前に、喧しいはずの和也も黙り込んだ。

 ぱっと顔を上げ、憲明は葉月と目を合わせる。


「皆異論はないようだ」

「了解した、憲明。ああ、もちろん剣矢は後日で構わないぞ。今日はまだ一仕事あるようだからな」

「悪いな、葉月」


 剣矢が詫びの言葉を述べると、葉月は口元をもごもごさせながら手をぶんぶんと振り回した。『何でもない』と言いたいらしい。


「話はまとまったようだな。では剣矢くん、こちらに」

「はい、ドク」


 剣矢は皆の方を振り返ることもなく、ドクの後に続いてスライドドアを通過した。


         ※


 パチン、と軽い音を立てて、目的の部屋の電気が点いた。この部屋は、小学校の教室ほどの広さがあるらしい。『らしい』というのは、壁際に様々な機材が備え付けられていて、本来よりも使えるスペースが狭く見えるから。

 それでも整然とした印象を与えるあたり、ドクの几帳面さが改めて実感される。


 部屋の中央には、リクライニングシートのような椅子がある。剣矢は残り僅かな体力を振り絞ってよじ登り、横たわった。


「準備はどうかね、剣矢くん?」

「はい、大丈夫です」


 そう答えると、すぐそばから怪訝そうな視線を感じた。首だけ横に向け、視線の主と目を合わせる。


「どうしたんだ、エレナ?」


 当然ながら、エレナは無言である。じっと剣矢の目を覗き込んでくるだけだ。しかしそれだけで、剣矢には彼女の懸念、いや、心配の念が伝わってきた。


「あんまり気にするな、エレナ。いつものことじゃないか」


 そう言って、頭にぽんと掌を載せてやる。


「さあ、剣矢くん」


 剣矢はドクから半球状のものを受け取った。ヘッドギアだ。

 これを頭に被り、横たわることで、吸血行為で得た記憶を電気的信号として取り出すことができる。


「さあ、落ち着いて、心を静めてくれ」


 ふうっ、と息を着く剣矢。ここから先は、自分のルーティンだ。自分とドクが出会った時のこと、すなわち七年前の、両親と共に巻き込まれた爆弾テロのことに思いを馳せた。


         ※


 スプリンクラーが作動し、ざあっ、とシャワーが降り注ぐ。しかし炎は轟々と燃え盛り、消える気配がない。やがて黒煙が鼻や目を占め始め、剣矢は息ができなくなった。

 幸いだったのは、剣矢がうつ伏せに倒れていたこと。お陰で、煙を吸わずに済んだ。それでも、軽傷とはいえ外皮も臓器も損傷していた。

 これは後から知らされたことだが、救助されるのがあと五分遅れていたら、剣矢は今この世にいなかったという。


 その五分間に彼を救った人物こそ、ドクである。

 本人は地下の基地から出てこなかった。しかし、現場に急行した救急隊員の得た情報から、剣矢の救出を優先したのだ。


 自分が意図的に優先救助された。それは、剣矢にとっては苦々しい記憶である。


 剣矢が気づいた時、目の前にいたのは医師でも看護師でもなく、僧侶だった。


「やあ、錐山剣矢くん。気分はどうかね?」

「……」

「ああ、まだ口を利ける状態ではないな。私の手を握ってくれ。何か異常があったら、強く握るんだ」


 こんなに脱力しきった身体で、強くも弱くもあるものか。剣矢はそう思ったが、こちらを見下ろす僧侶の笑みに、冷たい心が氷解していくような感覚を得た。


「おっと、自己紹介が遅れたね。私はドク。本名は明かせないんだが、気軽にドク、と呼んでくれ」


 ほっとしたことで、剣矢の胸中に温かいものが生まれた。今なら、口が利けそうだ。


「ド、ドク、さん……」

「何かね、喋れそうか?」


 剣矢はドクの手を握ると同時に、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「お父さんは……お母さんは、無事、ですか?」

「残念だが、助からなかった」


 ドクはずばり即答した。剣矢の心の傷を塞ぐには、それが一番の策だと判断したらしい。

 ショックが大きすぎるのか、逆に実感できないのか。剣矢は思考停止に陥った。

 むしろそれゆえに、ドクの次の言葉はするすると頭に入ってきた。


「君を救うために、特殊な手術を施した。私の勝手な判断だ。責めるなら私を、煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わない」

「……?」


 なるほど。自分は致命的な障害から生存させられるために、何某かの処置をされたらしい。

 そう剣矢は判断した。が、不思議と衝撃はなかった。そんなことより、落ち着きを維持できるうちに確認しておきたいことがある。


 剣矢はぎゅっと、ドクの手を握った。


「ん? どうかしたかい、剣矢くん?」

「捕まり、ましたか? 犯人は、逮捕、されましたか?」


 これには流石のドクも驚きを隠せなかった。この時点で、剣矢は今回の爆発を『事故』ではなく『事件』であると認識している。あの現場に満ちていた殺気を感じ取っていたのだ。


 ドクは先ほどと同様、真正面から答えることにした。


「今回の事件は、自爆テロだったんだ。首謀者は現在逃亡中。全国で検問が行われているが、まだ捕まってはいない」

「どのくらい、時間が……?」

「爆発があってから、二日半といったところだ。現在までに、負傷者は二十五名、死者は九名となっている。君のご両親を含めてね」

「そう、ですか」

「おっと、そろそろ君は休んだ方がいいな。鎮静剤を注射する。丸一日は眠っていることになるが、構わないね?」


 再び手を握られ、ドクは剣矢の顔を見下ろした。


「……しゅう……」

「ん?」

「復讐、させてください」


 ドクは思わず、一瞬ではあるが全身の動きを止めてしまった。


「な、何だって?」

「僕も……、テロリストを、殺します。両親の、仇です」

「そ、それは」

「僕に、戦いを教えてください」

「そうか。――いいだろう」


 それでもドクは、やはり即答した。

 そして剣矢は覚悟した。もう二度と、自分が『真っ当な人間』ではいられないということを。


 その後、七年間に渡って、剣矢はドクのつてを頼って多くの戦場を駆け巡ってきた。今までに何本の注射器を突き刺してきたかは、百本目を機に数えるのを止めている。


 そして、事件から五年後、すなわち二年前。

 東南アジアからの帰りにドクから聞かされた『ある事実』――それは、剣矢の信念を根底から揺さぶるものだった。

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