第3話
※
憲明の運転する車の後部座席。そこから剣矢は、外の風景を見ていた。
海岸沿い、コンビナートやバイオ発電施設の並ぶ、無機質な地区。しかし煙突の隙間からは、内陸部の暖かな灯りが見える。
今は七月下旬。真夏なのに『暖かい』というのも暑苦しいが、そこには確かに人間の営みがある。
何となく、極々何となくではあるが、剣矢はそれを感じ取っていた。
こんな形で過去を思い返すのは、実に何ヶ月ぶりのことだろうか。三ヶ月? 半年? いや、もしかしたら丸々一年ぶりかもしれない。
剣矢は眉間に手を遣って、自分の気持ちを落ち着けた。
平和な日常への憧れを思い出さないために。危うくそこへ帰りたいと思ってしまう自分を諫めるために。
そう。頭では分かっている。分かっているつもりになっている。だが、人の心というものは、そうそう上手くできてはいなかった。
疲労からうつらうつらしていた剣矢は、あっという間にその憧れ――過去の自分へと、記憶を飛ばしてしまっていた。
※
七年前、十二月下旬。
その日、この街には珍しく雪が降った。カーナビからも、今年はホワイトクリスマスになるだろうという天気予報士の言葉が流れてくる。
「ねえお母さん、ホワイトクリスマスって、普通のクリスマスとどう違うの?」
父親の運転する車の中。母親と二人で後部座席にいた剣矢は、そんな問いかけをした。
「そうね、雪が降って、街が真っ白になるの。お母さんも一度だけ、見たことがあるわ。最近は地球温暖化がだいぶ進んでいるから、本当に珍しいことなのよ。クリスマスに雪が降るなんてね」
「ふぅん」
そんなものなのか。剣矢はやや興味を削がれてしまった。
無意識のうちに、剣矢は雪を粉砂糖と重ね合わせて見ていたのだ。童話『ヘンゼルとグレーテル』に登場したような、お菓子でできた家やビルが現れるかもしれない。
そんなまさか、と思いながらも、心のどこかで実現してほしいと願っている自分がいる。
もう十歳にもなるのに、子供じみた考えをするものだと、剣矢は我ながら呆れてしまった。
しかし、母親ですら一度しか見たことのない現象だ。せっかくだから、目に焼き付けておこう。せっかくの、クリスマスの思い出に。
そう考えた家族連れは、決して少なくなかった。
「何だ、せっかくクリスマス当日から予定をずらしたのに、混んでるじゃないか」
父親が、トントンと指の腹でハンドルを叩く。車列は見事に渋滞に巻き込まれていた。
だが剣矢は、それはそれで構わなかった。イルミネーションは綺麗だし、歩道を行き交う人々の笑顔も眩しい。いい一日じゃないか。見ているこっちも楽しくなる。
それから数十分の混雑を経て、剣矢たち一行は、ちょっとした高台に辿り着いた。駐車場に車を入れる。アスファルトにも薄っすらと、粉雪のベールがかかっていた。
この高台には、地元では名の知れた展望台があって、季節ごと、とりわけ夏と冬は賑わいを見せる。
夏には海に沈む夕日が、冬にはイルミネーションで飾られた街並みが、それぞれ人々を迎え入れてくれるのだ。
渋滞で到着まで時間がかかったために、剣矢はもうイルミネーションは見飽きた感じがしていた。それでも、母親曰く『もっとすごい景色』が見られるとのこと。興味が湧かないわけがない。
展望台のエレベーターに乗るまで、またしばしの時間を要した。
今度は外の風景が見えないので、剣矢にはなかなかの忍耐が必要とされたが、母親に何度も宥められて、ようやくエレベーターに乗り込んだ。
しかし。
「お母さん、剣矢、先に行っててくれるか。ちょっと薬を飲んでくる」
「あら、あなた、大丈夫?」
「ああ、次のエレベーターで行くよ」
詳しくは知らないが、剣矢の父親は頻繁に薬を飲んでいた。病気らしいとは察していたが、両親共に、細部に至るまでは教えてくれなかった。
ここは、『命に別状はない』『ちょっと調子が悪いだけ』という二人の言葉を信じるしかない。
ぎゅう詰めのエレベーターから解放され、剣矢はやっと深呼吸をした。展望台は、三百六十度全体がガラス張りになっており、そのうち数ヶ所に望遠鏡が備え付けられている。
やっとここまで来たのだ。一等席で景色を見てやる。剣矢はそう意気込んでいた。
リン、と音を立てて、停止するエレベーター。剣矢は勢いよく飛び出した。
「こら、剣矢! 危ないで――」
母親の忠告は、しかし最後まで聞こえることはなかった。一時的に、剣矢の耳は聞こえなくなってしまったからだ。強烈な爆発音によって。
※
「ッ!」
剣矢は勢いよく上半身を起こした。心臓がバクンバクンと鳴り響き、全身が酸素を求めている。胸に手を当て、椅子に座ったまま身体をくの字に折る。
そして実感する。今の自分は、あの爆弾テロのあった時の俺ではない。十歳ではなく、十七歳の自分だ。
目の前にあるのは、車の運転席のシートであり、炎や煙、それらに取り巻かれたバラバラ死体ではない。
「はあっ! はあ、はあ、はあ……」
「おい、大丈夫か、剣矢?」
「はあ、あぁ……。俺、またうなされてたか?」
すると声をかけてきた憲明が、かぶりを振りながら、
「今日は一際酷かったぞ。まさか注射の副作用、ってこともないだろうが」
「そう、か」
「本当だったら休んでいろと言いたいところだが、もう到着しちまったからな。お前の気持ちに変わりがなければ、ドクに診てもらうべきだとは思うんだが」
憲明の言葉は、終始淡々としている。だが、剣矢はそこに憲明なりの気遣いがあることを察していた。
気を遣いすぎて逆に相手を委縮させてしまうという、本末転倒を避けるための処世術。今の剣矢には、実に有難いものだった。
「大丈夫だ。ドクに会おう。俺が血を吸って得た情報も、解析してもらわないといけないしな」
憲明は大きく頷き、振り返って背を向けた。やけに明るい月光が、その背中に木々の影を落としている。
「剣矢」
「ん?」
車を出て振り返ると、葉月がそこにいた。
「記憶を引っ張り出すって、どんな感じか分からないけど、無理はしないでくれよ。繰り返すようだが、剣矢がいないとあたしたちには戦いようがない」
「分かってる。そのへん、ドクはちゃんと調整してくれるさ」
「そう、か。お前がそう言うんなら、それでいいんだがな……」
葉月は珍しく、歯切れの悪い様子で俯いた。しばしの間、剣矢がその姿を見つめていると、和也の騒がしい声がした。
「おーい、葉月! 早く行こうよ! ドクが待ってるって!」
「ああ、了解した。剣矢、歩けるか?」
「問題ない。平衡感覚は無事みたいだ」
そっと伸ばされた葉月の腕を軽く押し返し、剣矢は和也の下へ駆けていく葉月の後についていった。
※
皆の眼前には、半壊し、朽ち果てた木造建築物があった。瓦や境内と思しきものからして、元は寺院だったようだ。広大なスペースがあるが、足を踏み入れられるのは僅かな範囲だろう。
しかし剣矢たちの足取りに迷いはない。崩れた柱を避けるようにして、真っ暗な本堂へと土足で踏み込む。
葉月が端末のライトで前方を照らし出すと、青いランプがぽつん、と点灯しているのが見えた。
エレベーターだ。ボタンを押し込み、スライドドアを開放する葉月。和也は相変わらず、ぴょこぴょことついていく。
「さあさあ葉月、ドクのところへ!」
「待つんだ、和也。剣矢を置いていくわけにはいかないだろう」
「そんなあ! ねえ、葉月は僕と剣矢、どっちが好きなのさ?」
葉月は腹部にアッパーカットを食らったかのように、上半身を折った。今度こそ、その顔は紅潮しきっている。
「おい、馬鹿なこと訊いてんじゃねえぞ、和也。目ん玉潰すぞ」
憲明が力んで見せる。流石に話が踏み込みすぎだと気づいたのか、和也は情けない声で謝罪の弁を述べた。
その頃には剣矢もまた、エレベーターのドアに腕をかけるところだった。
「もう大丈夫だ、葉月。ドアを閉めてくれ」
「あ、ああ」
ぱちん、と自分の頬を叩き、葉月は緊張状態を取り戻した。
剣矢が両足をエレベーター内に踏み込んだ直後、ゆっくりとドアが閉まっていく。
エレベーターは、先ほどの寺院の外見とは打って変わって真新しかった。柔らかな白い光が天井から降り注ぎ、微かに身体が浮き立つような感覚が四人を捉える。
到着までしばらく時間がかかる。それを承知している憲明が、剣矢に問うた。
「剣矢、喋れるか?」
「ああ、問題ない」
「注射、っていうか薬剤の副作用って、やっぱりあるのか?」
ふむ。剣矢は顎に手を遣った。この能力については隠し立てするところはない。
「そうだな……」
剣矢はゆっくりと話し出した。
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