6.箱と哀愁のベルスーズ

第234話 閉ざされた箱



 もし、目の前に『箱』があるなら



 何を入れますか?



 大切な宝物?



 それとも


 絶対に目にしたくないもの?



 いえ、もしかしたら



 誰にも知られたくない



『秘密』かもしれませんね。





 今、ここにある箱は




 決して開けてはならない、パンドラの箱。





 さぁ──




 あなたは、この箱を






 開ける勇気が、ありますか?








 ✣


  ✣


 ✣


  ✣


 ✣




 一月一日──


 一夜開けた、その日の朝は、澄み切った空気と、初日の出が満たす健やかな朝だった。


 真冬の空は美しく晴れ渡り、果てしなく広がる蒼穹そうきゅうが、新年を華やかに彩る。


 そして、主人を亡くし、音もなく佇む阿須加の屋敷は、まるで取り残されたように沈黙し、それとは対照的に、結月の両親が暮らす別邸は、慌ただしさに包まれていた。


「奥様、とても、お似合いでございます」


 早朝から、メイドたちに囲まれた結月の母・阿須加あすか 美結みゆは、小紋こもんの着物に身を包み、美しい貴婦人に成り代わっていた。


 普段の派手な装いを一掃し、白地に松竹梅の模様があしらわれた着物を着つけた姿は、実に美しく優雅だ。


 品よく纏めあげた艶やかな髪も、年の割に若々しい肌も、もう直、五十を迎える女とは思えない。そして、その姿は、普段の奔放さからは想像もつかないくらい、奥ゆしさに溢れていた。


「毎年のこととはいえ、着物を着るのは窮屈ね」


「息苦しいのであれば、もう少し帯を緩めますが」


「別にいいわ。着崩れたら困るし。洋介ようすけは? 準備できたの?」


「はい。私室でお待ちです」


 姿見で自分の姿を確認しながら、美結が、メイドの戸狩とがりに問いかける。すると、洋介は既に準備を終えているらしい。それを聞いた美結は、すぐさま部屋を出て、洋介が待つ私室に向かった。


 広い廊下を進み、その先に見えた部屋の中に入れば、洋介はイタリア製のスーツに身をつつみ、美結が来るのを待っていた。


「美結。着付けは、終わったのか」


「えぇ、ご覧とおりよ」


「そうか、よく似合ってるよ」


「ありがとう。でも、この姿で昼過ぎまで拘束されるなんて、憂鬱ゆううつで仕方ないわね」


「そう言うな。正月に、お父様の元に集まるのは、阿須加家の古くからの習わしだ」


 この後、洋介たちは、大旦那様──つまり、洋介の父である阿須加あすか 善次郎ぜんじろうの元に向かう。


 今年、95歳になる大旦那様は、30年ほど前、洋介に跡目を継がせ、今は隠居生活をしている。


 そして、元日には、その大旦那様の元に、阿須加家の親類たちが一斉に集まるのだ。


「洋介は嫌じゃないの? あの嫌味ったらしい親族たちと、また顔を合わせなきゃならないのよ」


「仕方ないだろう。当主として跡を継いだんだ。僕らが、行かないわけにはいかない」


「…………」


 仕方ない――それで済まされるのは、正直、納得がいかなかった。


 だが、古くからの習わしには逆らえない。美結は固く口を閉ざすと、洋介と共にリムジンの中に乗り込んだ。



 ✣


 ✣


 ✣



 車を一時間ほど走らせれば、町のはずれにある山間やまあいに、悠然とした武家屋敷が見えてきた。


 隠居生活には、もってこいのその屋敷は、古風な町並みと、美しい自然に囲まれていて、まるで絵画の中のようだった。


 その洗練された景色は、人々を感嘆させ、そして、その広大な土地を所有しているのも、また阿須加一族だった。


「洋介様、美結様、お待ちしておりました」


 大旦那様の屋敷につくと、車から降りた瞬間、ズラリと列を作ったメイドたちが、洋介たちを出迎えた。


 皆、大旦那様の看病や世話をするメイドたちだ。


 病床につき、伏せっている大旦那様は、もう長くはないと言われていた。日がな眠りにつくことが多く、意思の疎通もままならない。


 だが、土地も遺産も、既に洋介に生前贈与されているため、仮に亡くなったとしても、遺産相続で揉めることはなかった。


 とはいえ、兄と姉を差し置き、一番末の弟である洋介が当主に決まった時は、一族中が、揉めに揉めたのだ。


 特に、長男である兄は憤慨し『俺が継ぐべきだ』と善次郎に詰め寄った。


 だが、父である善次郎ぜんじろうは、決して意志を変えず、それにより兄弟の仲は、すぐさま分裂し、それからは、顔を見る度、ののしり合ってばかりだ。


「これはこれは、ご当主様」


 すると、洋介たちが屋敷に入った瞬間、案の定、嫌味ったらしい声が聞こえてきた。


 視線を送れば、そこには、立派な口髭を生やした恰幅のいい男が、こちらを見つめていた。


 洋介の兄──阿須加あすか 長治郎ちょうじろうだ。


「兄さん。明けましておめでとう」


 ご当主様などと、わざとらしく口にされ、微かに苛立つ。だが、そんな兄に、洋介は物怖じせずと、新年の挨拶を投げかけた。

 そして、半歩後ろにいた美結もまた、丁寧に頭を下げる。


「お義兄様、智代ともよ様。明けましておめでとうございます。今年も、どうぞよしなに」


 本心では、あまり宜しくしたくない。


 だが、形式的に挨拶をすれば、向かいに立つ長治郎と、その横にいる長治郎の妻・智代ともよも、明るく言葉を返してきた。


「明けましておめでとう。今年も宜しくして頂戴ね。それより、最近、ホテルの業績がかんばしくないと聞いたわ。一体どんな経営をなさってるの?」


「…………」


 挨拶と同時に、すぐさま苦言が飛び出してきて、二人は無意識に睥睨する。

 だが、この有様は、今に始まったことではない。


「洋介君には悪いけど、やっぱり、うちの人が跡目を継いだ方が良かったんじゃないかしら。お義父様に甘やかされて育った洋介くんに、会社経営は荷が重かったのよ」


「そうだな。まさか、こうも阿須加家が衰退していくとは……今からでも、俺に当主の座を譲りわたしてもいいんだぞ。お父様も、そう長くはない。何より、お前の所には、いないだろう」


 娘しか──それは、これまでにも何度と言われた言葉だった。


 そして、長治郎の元には、子供が三人いた。

 息子が二人と娘が一人。


 だからか、長治郎が跡を継げば、跡取り問題には苦労しないはずだった。でも──


「それは、お父様が決めたことだ。文句があるなら、お父様に」


「お義父様に、直接いえるわけないでしょ! だいたい、うちには息子が二人もいるのに、あなた達のところには、一人もいないじゃない! だから、初めから、長治郎さんが跡を継げば、阿須加家は安泰だったのよ!」


「そ、それでも、当主の座は……っ」


 声を荒らげた智代に、洋介がたじろぐ。

 すると、その様子をみた長治郎が


「まぁまぁ。洋介、別にお前を攻めたいわけじゃないんだ。でも、お前のせいで、阿須加家がつぶれることになれば、こちらも困る。それに、当主の座を譲る気はないなら、いい加減、連れてこい。洋介の次は、結月が跡を継ぐのだろう? それなのに、毎年毎年、屋敷に引きこもらせて顔すら出させず……おかげで、一族中で噂されてるぞ。洋介の娘は、相当な醜女しこめなんじゃないかとな」


「……っ」


 醜女しこめ──それは、みにくい女を指す言葉。


 だが、結月は、決して醜女ではない。

 美結によく似て、美しく成長したのだから。


「目に振れさせたくないほど、不細工なのか? それはそれは気の毒に」


「ご心配なく」


 すると、長治郎の言葉を遮り、美結が声を発した。

 美結は、嘲笑うように微笑むと


「うちの娘より、あなた方のご息女の方が、ずっとずっと醜女でしてよ。それに結月は、あなた方と違って、とても美しく聡明に成長しております。なにより、当主に選ばれなかったからと、負け犬のように突っかかるのは、やめてくださらない」


「なんですって!?」


「やめないか、美結」


 歯に衣を着せぬ美結の言動を、洋介がすぐさま遮る。だが、美結は


「先に暴言を吐いたのは、あちらの方よ」


「それでも口を慎め。……じゃぁ、兄さん。僕らは、お父様に挨拶にいくから」


 すると、洋介は美結を連れ、奥へと進み、その後ろ姿を見つめながら、智代が憤慨する。

 

「全く、相変わらず嫌な女ね。嫁いできた時は、しおらしい娘だと思っていたのに、とんだ女狐だったわ」


 だが、そう喚く智代の姿は、美結の言う通り、負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。

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