第231話 抱擁
「──お久しぶりです。結月お嬢様」
「ッ……」
目の前に現れた人物を見て、結月は小さく息をつめた。
双眸を見開けば、そこにはじわりと涙がたまり、微かに口元が震え出す。
そこには、ずっと会いたいと願っていた人がいた。
会って、謝りたいと思っていた人──
「白木さん!」
感極まった結月が、まるで子供のように抱きつけば、白木は少し驚きつつも、優しく結月を抱きしめ返した。
背中にそっと手を回し、優しくお嬢様の頭を撫でる。
幼い頃も、よくこうして抱きしめてもらった。
両親からきつい言葉を浴びせられる度に、白木は、いつもこうして、結月の頭を撫で慰めてくれた。
「白木さん……ごめんなさい……ごめん、なさい……っ」
優しい胸に抱かれながら、結月は涙を流し、何度と白木に謝り続けた。
白木は、8年前まで、ナースメイドとして結月に仕えていた。
『ナースメイド』は、主に子守りをするメイドの事だ。
当時、気が狂ってしまった母親の代わりに、半ば強引に結月の世話を押し付けられたのが、まだ新米だった白木だった。
兄妹が多く、人より子守りに手馴れているというのが理由だったが、本当の理由は、他のメイドたちが、結月の世話を嫌がったから。
名家の跡取り娘。それも、乳飲み子となれば、万が一何かあった時に取り返しがつかない。
それ故に、メイドたちは『結月様のお世話なんて恐れ多い』とばかりに押し付け合い、最終的に白木に白羽の矢がたった。
だが、当時の白木は、まだ20歳の乙女で、我が子どころか結婚すらしたことがない白木には、とてつもない重圧だった。
メイドとしても半人前の自分に、そんな大役が務まるのか?
そんな不安に駆られつつも、初めて結月を抱いた時に思ったのだ。
この子を守らなくては──と。
実の親にすら愛されず、この混沌とした一族の中で生きていかなくてはならないこの子に、できる限りの愛情を注いであげたいと。
それが母性だったのか、はたまた哀れみだったのかは分からないが、真っ白なベビードレスに包まれた結月は、とても小さく弱々しく、白木は、ナースメイドとなったその日から、片時も離れず結月に寄り添った。
使用人としての一線は越えずとも、母のように結月を愛し、慈しんだ。
夜泣きが酷い日は、一晩中あやし続け、空いた時間には、育児書を読み漁り知識を蓄えた。
それでも、若い白木には、まだ不慣れなことも多く、必死に結月の子守りをする白木に、よく斎藤が声をかけていた。
斎藤は、元々、洋介の運転手だったが、結月が産まれたと同時に、結月専任の運転手となった。
だが、赤子の結月を車に乗せることはほとんどなく、屋敷の中では、当時の執事の補佐として、フットマンの代わりも務めていた。
だからか、結月の世話を、よく買ってでてくれて、白木に休憩を促すこともあった。昼も夜も付きっきりでは、身体が持たないから──と。
そして、数年がたち、結月が小学校に入学する頃、結月の家庭教師を兼任する形で、矢野がメイドとしてやってきた。
無口な性格の矢野に、白木は、はじめこそ戸惑ったが、結月と同い年の息子がいると聞いてからは、すぐにうちとけ、良き相談役にもなってくれた。
そして白木は、矢野や斎藤たちの助けを借りつつ、結月を立派に育て上げた。
名家の娘として恥じぬよう、気品と優雅さを持ち合わせた、美しい淑女に──
なにより、白木たちの愛情を一身に受け、蝶よ花よと育てられた結月は、とても心根の優しい娘に育った。
そう、使用人たちを、実の親より家族だと思うほどに──
だが、結月が産まれて10年がたった頃、婚約者である冬弥に突き飛ばされ、結月は階段から転落してしまった。
頭を殴打し、血だらけになった結月を目にした時は、酷く動揺した。
だが、それを目撃した白木は、その後、冬弥の行いをもみ消す為だけに、阿須加家を解雇されてしまった。
そしてそれは、結月が入院中の出来事で、白木は、結月の病状を、ろくに確認できぬまま、屋敷を追い出された。
その上、結月との接触禁止まで命じられ、もし接触しようものなら、親弟妹共に路頭に迷うことになると厳しく指顧された。
家族を人質にとられた白木は、その後、為す術もなく屋敷の前で泣き崩れ、矢野や斎藤に話すことが出来ず、ただひたすら真実を隠すことを強要され、ナースメイド失格の烙印を押された。
そしてそれは、10年間、我が子のように育ててきた結月との無慈悲なまでの断絶だった。
だから、もう二度と会えないとすら思っていた。
あの子を抱きしめることは、もう一生出来ないだろうと──
「ごめんなさいッ……白木さん、本当に、ごめんなさい……っ」
「何を謝っておられるのですか。お嬢様が謝ることなど、何一つございません」
泣きじゃくる結月を抱きしめて、白木は、噛み締めるように随喜し、その後、涙を流した。
8年前は、まだ小さかった結月が、見違えるように成長していた。
背が伸びて、顔つきも女らしくなり、男装をしていても、その愛らしさは損なわれていなかった。
「大きくなられましたね。あんなに幼くいらっしゃったのに……っ」
「……っ」
白木の優しい声に、結月もまた涙を溢れさせた。
こんな日が、また来るとは思わなかった。
また、抱きしめてもらえる日がくるなんて──
「白木さん……なんで。どうして、ここに……?」
涙目のまま結月が問いかければ、白木は、抱きしめていた手を緩めながら、やわらかく答えた。
「お嬢様が、今夜、旅立つをお聞きして、一目お会いしたいと思いまして」
「私のために、来てくれたの? でも、お子さんがいらっしゃったでしょう。今は」
「大丈夫ですよ。娘は、主人に預けてまいりました」
「預けてって……そうまでして、来てくれたの?」
「はい。だってお嬢様は、私にとって、娘のような方でしたから」
「……っ」
娘――そういわれ、結月の瞳には、また涙がたまっていく。
何度、白木さんの娘になりたいと思ったことだろう。
何度、この人が、本当のお母様だったらと――
「うぅ、白木さん……っ」
その瞬間、また涙が溢れた。
胸がいっぱいで、言葉を紡げなくなる。
すると白木が、結月にハンカチを差し出しながら
「お会いできてよかったです。それに、先日は、お手紙を頂き、ありがとうございました」
「うんん……私の方こそ、お返事ありがとう」
白木の言葉に、結月はハンカチを受け取りながら、微笑んだ。
秋頃、結月とレオは、公園で白木を見かけた。
それにより、白木がこの近辺に住んでいることがわかり、レオは、結月が連絡を取りたいと言い出した時のために、念のため、白木の所在を割り出していた。
結婚し苗字が変わっていたため、特定には、少々時間がかかったが、そのおかげか、冬弥を脅すための証拠を押さえる際に、白木にすぐさま協力を求めることができた。
とはいえ、レオが直接いけば怪しまれるため、手紙を渡すのは、白木の同僚でもあった矢野に頼んだのだが……
「お嬢様からの手紙を持って、矢野さんが尋ねてきた時は、正直驚きました。でも、あのようなことがあったのに、餅津木家との縁談が破談になっていなかったなんて……でも、お役に立てるのならとお返事を致しましたが、うまくいったようですね」
「うん。白木さんのおかげよ。でも、当時のことは、本当にごめんなさい。白木さんは、何も悪くないのに……っ」
「お嬢様、先程も申し上げましたが、お嬢様が謝る必要はございません。それに、私の方こそ、最後までお守りできず、申し訳ありませんでした。長い間お仕えしたにも関わらず、連絡一つできず、きっとお嬢様の御心を傷つけてしまっただろうと」
「そんなッ、白木さんが連絡できなかったのは、お父様達に脅されといたからでしょう! それに、白木さんを責めたことは一度もないわ! それより、うちを辞めさせられたあとは、大丈夫だったの!? 阿須加家を解雇されたとなれば、その後の就職にも響いたでしょう?」
結月が申し訳なさそうにそういえば、白木は、分からぬ程度に苦笑する。
全く響かなかったと言えば、それは嘘になる。
だが、餅津木家との件があったからか、幸いその噂が大きく広がることはなく、今も、この町で暮らすことは出来ていた。
「大丈夫です。程なくして、再就職先も決まりまして、生活に、さほど支障はでておりません。それに、新しい職場では良縁にも恵まれまして、今は結婚し、中村と姓を改めています」
「あ、そうだったわ。今は、白木さんじゃなくて、中村さんなのよね? 素敵なご家族に囲まれて、今は幸せだと手紙にも書いてあったわ」
「はい。ですから、私のことを、もう気に病む必要はございません」
「え?」
「お嬢様、お話は全て、矢野さんと斉藤さんから伺いました。お嬢様は、私が解雇されたあとも、ずっと私のことを心配し、自分を責めていらしたと……だから、今日は伝えるために来たのです。お嬢様は、何も悪くないと。だから、もうご自分を責めないでください」
「……っ」
優しく握られた手に、心が震えた。
あんなにも大きかった白木の手が、今はもう自分と同じくらいになっていた。
無理もない。だって、あれから8年もたったのだ。
そして、その8年間、ずっと責め続けてきた。
自分のせいで、白木さんは辞めさせられてしまったのだと……
だけど、その重荷に取り去るためだけに、彼女は、わざわざ会いに来てくれたのだ。
「うぅ、白木さん……っ」
包み込むような優しい言葉に、結月の瞳からは、また涙が溢れた。すると白木は
「お嬢様、私は今、幸せです。だから、今度はお嬢様が幸せになる番です。どんなに離れていでも、私は、お嬢様の幸せを常に願っております。ですから、どうか御心のままに、お慕いする方と幸せになってください」
「っ……白木さんッ」
久方ぶりに再会した二人は、その後「ありがとう」と言い合い、しばらく離れることなく、その思いを確かめ続けた。
そして、その光景を、その場にいた人々が、優しく見守っていた。
離れ離れだった母娘の再会に、もらい泣きする者。
重荷を取りさったお嬢様を見て、ホッとする者。
そして──
「にゃ~」
と、どこからか声が聞こえる。
その声に、結月が振り向けば、今度は、ルイの腕の中に、猫がいるのに気づいた。
綺麗な毛並みをした、真っ黒な猫。
それは、幼い頃、結月が大切に育てていた──
「ルナ?」
結月が小さく名を呼べば、ルイの腕の中にいた黒猫は、ピクリと耳を動かした。
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