第230話 夢を見る君へ


「大丈夫だよ。このくらいの壁なら、ロープを使わなくても登れる」


『は?』


 だが、レオのその言葉に、浩史は目を丸くする。

 ロープを使わなくても、登れるって……


『いやいや、どう考えても無理だろ! 執事さん、この高さ、ちゃんと見えてる!? あの阿須加家の塀だぞ!』


「わかってるよ。君こそ、俺を誰だと思ってるんだ。この屋敷の執事だぞ」


 阿須加家の守りが厳重なのは、執事であるレオには、既に分かりきったこと。

 だが、浩史は、尚も無理だと否定してきて、レオは、壁とは反対方向に歩き出しながら、話し始めた。


「浩史くん、parkourパルクールって知ってるかな?」


『え……なんだって?』


「パルクール。フランス発祥のトレーニング方法だよ。起源は、20世紀初頭。元はフランス軍の強化訓練に使われていたんだ。その訓練は、特別な器具を一切使わず、走る・跳ぶ・登るといった動作だけを用いて、体一つで障害物を越えていく。まぁ、簡単に言えば、人間が本来持っている潜在能力を、意図的に引き出していくトレーニングかな?」


『潜在能力?』


「あぁ、フランスに移住したあと、たまたま、それを知ってね。ルイの祖父のツテで、元・海軍の男性から話を聞く機会があったんだ。『3m以上ある高い塀を飛び越えることはできるか?』と尋ねたら『できる』と言われたから、直接、指導してもらった。だから、俺にとっては、こんな壁、大した障害にはならないよ」


『な!?』

 

 平然といいのけた執事に、浩史が更に驚けば、レオは、改めて人が居ないことを確認し、その後、トランシーバーをポケットに入れた。


 手には革製のクローブをし、再度、屋敷の塀を見上げる。

 すると空には、美しく月が輝いていた。

 月明かりのおかげか、視界も良好だった。


 すると、壁から数メートル離れたレオは、その後、一気に助走をつけ、壁を駆け上がる。


 できるだけ高い位置に足をつき、壁を地面のように踏み込めば、その瞬間、一気に上へと蹴り上がる。すると、飛ぶように壁を駆けたレオは、瞬く間に上部の鉄柵を掴み、そのまま柵を飛び越えた。


 ひらりと闇夜に人影が舞う。


 だが、それはほんの一瞬の出来事で、塀を飛び越えたレオは、あっさり浩史の前に降り立った。


 それは、さながら身軽な猫のように──


「ほら、ロープを使うより、ずっと早くて簡単だっただろ?」


「簡単なわけあるかぁ! 普通は、そんなことできねーから!?」


 まるで、忍者か!とツッコミたくなるような身のこなしに、浩史が目をかっぴらけば、レオは、軽く笑いながら、屋敷を見上げた。


「これでも、運動神経はいい方でね。まぁ、執事の仕事をしていて、こんなアクロバットなことをする機会はなかったけど」


「……そりゃ、そうだろうよ。執事が壁は登るなんて、ドラマでも見た事ねーよ」


 なにより、執事の本来の仕事は、屋敷の総括。

 それ故に、壁を駆け上がるのは専門外だろう。


 だが、元から華奢な体付きをしているとは思っていた。一般的な男性に比べれば、無駄な贅肉が一切なく、身軽そうな体型をしている。

 だが、まさか、その体型が、壁を駆け上がりながら培われたものだったとは!?


「海軍に直々にって、そこまでする? 執事って、そんなこともできなきゃいけねーの」


「まさか。これは、俺が個人的に習得したいと思ったことだよ」


「個人的に?」


「あぁ、大人になれば、もう壁の穴を通ることは、できなくなると思ってね」


「壁の……?」


「いや、なんでもないよ。さて、これで、やっと空っぽになった」


 もぬけの殻になった屋敷を見上げ、レオは気が抜けたように微笑んだ。


 結月の両親が、この事態に気づく頃には、自分たちは、もうこの町にはいないだろう。


 阿須加家の血を引く唯一の後継者が、忽然と姿を消した。そう理解した時、あいつらは、どれほど慌てふためくことだろうか?


「そっか。じゃぁ、もうお別れなんだな。執事さんとも」


 すると、浩史がしみじみとそう言って、レオは視線をあわせる。


「寂しいのか?」


「ち、ちげーし!」


「はは。でも、助かったよ。流石の俺も、壁の向こうを透視することは出来ないし、君が見張りをしてくれてよかった」


「透視までできたら、もう人間疑うわ!」


「はは、酷いなぁ~」


 すると、その瞬間、人の声が聞こえてきた。

 どうやら通行人が、近くを通ったのだろう。


 レオたちは一度視線を流し、その後、別れの言葉を交わす。

 

「じゃぁ、受験頑張って。ルイから、君の夢を聞いたよ。人のためになる、素晴らしい夢だと思う」


「そ、そう? なんか、執事さんに褒められると照れるなー。でも、俺、必ず大学合格して、たくさん勉強して、夢を叶えられるように努力する! だから、執事さんも、絶対、叶えろよ。『好きな人と一緒に、朝ごはんを食べたい』って夢!」


 その言葉に、レオは、少し懐かしくなった。

 

 浩史に話したその夢は、世間的には小さな夢だった。

 笑われたっておかしくない夢。


 だが、レオはどうしても叶えたかった。


 あの広い屋敷の中で、いつも一人で食事をしていた結月のために──


「ありがとう。君たちのおかげで、また家族を失わずにすんだ」


 幼い頃に、結月と交わした約束は『いつか、本当の家族になろう』そんな温かな夢だった。


 だが、それは、いつ奪われてもおかしくない夢だった。


 でも、この計画が成功すれば、もう奪われることはない。


 ただ穏やかに、愛しい人との日常を享受できる。


 でも、それも、あの日、諦めなかったおかげなのかもしれない。


 この屋敷に、初めて足を踏み入れた日。


 結月に忘れられ、折れそうになった心を、必死に建て直したおかげ──

 

「浩史くん。君に一つだけ助言をしておくよ」

 

「助言?」


「あぁ、夢を見る君へ。先輩からの最後の言葉」


 同じように夢を見る彼だからこそ、知っておいてもらいたいと思った。これから、夢を掴もうと歩いていく、若者だからこそ──


「『努力をすれば、いつか夢は叶う』そんな風に言う人もいるが、あれを鵜呑みにすべきじゃない」

 

「え?」


「努力をしただけで夢が叶うなら、みんな叶ってる。だから本当は、こう伝えるべきなんだ。夢は、努力を続けられた者だけが、掴むのだと」


 何度、挫折しても立ち上がれる者。

 努力を苦に思わない者。


 そして、自分を信じ、一心不乱に夢を見続けられた者こそが、その夢を掴む。


 だから、伝えておきたかった。

 どうか、夢を叶えるまで、諦めずにいてほしいと──


「ま、マジかよ?」


「あぁ、結局、これが真理だよ」


「……た、確かに、そういわれたら、そうかも? 執事さんも、たくさん努力した?」


「あぁ、8年努力し続けた。まぁ、苦ではなかったけどね、好きな人のためだったから」


「よっぽど、好きだったんだな」


「あぁ、好きすぎて、おかしくなりそうだった。でも、誰かのためだからこそ、諦めずにいられたのもあるよ。君も、なら、頑張れるんじゃないか?」


「……!」


 浩史の夢は、幼い頃に怪我をし、手が不自由になってしまった弟のために、性能の良い義手を開発すること。


 発明の世界は、それこそ、失敗と成功の繰り返しだ。


 何度も実践と研究の積み重ね、気が遠くなるほどの失敗を繰り返した先に、実用化の道が開けてくる。


 だからこそ、叶えるまで折れない心構えを、持って欲しいと思った。


 誰かの幸せのために、夢を叶えようとする彼だからこそ──


「君の夢が、叶うことを願ってるよ」


「おお。そんだけ期待されてるなら、俄然やる気がでてきた! それに、もし挫折しそうになったら、執事さんを言葉を思いだすよ」


 二人、軽く笑いあいえば、その後、別れの言葉を紡いた。


 新しい年の始まりに、夢を叶える者と、これから夢を追いかける者。


 それぞれが、お互いの幸せを願い言葉を交わす。


 どうか、未来が明るいものでありますように──


 そして、人知れず、繋がった夢への架け橋は、真冬の月明かりの下でも、キラキラ輝いているように感じた。


 

 

 


 ✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣


 ※ご注意※


作中に出てきました『パルクール』は、現代では、スポーツとされておりますが、場合によっては危険を伴うスポーツでもあります。

練習は、必ず安全な場所で、2人以上の補助者、または、適切な指導者を同伴の上で行ってください。また、見様見真似での実践は、命を粗末にするだけなので、絶対にマネをしないでください。

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