第182話 奥様のメイド


 結月を学校へ送り届けた後、レオは、結月の両親がすむ別邸に方に訪れていた。


 美結に命令されていた別邸の業務を覚えつつ、今日も、必要な資料や顧客情報などを暗記していく。


 数日ゆっくり休んだからか、レオの脳内はとても冴え渡っていて、暗記できる容量も格段に広がっていた。


 このタイミングで、体調を万全に戻せたのは、良かったと素直に思う。


 計画を遂行する上でも有利だし、普段より効率よく仕事ができる。


 なにより、使用人たちにバレたことで、大幅な計画変更は余儀なくされたが、やはり、ルイ以外の仲間ができたのは、心強い。


(よし……リストのすり替えも済んだし、別邸ですべきことは、あらかた片付いたな)


 手にした名簿をそっと棚に戻すと、レオは、部屋の扉を見つめて、ほっと息をついた。


 この重要書類が管理された書庫の中で、レオは、約一時間ほど作業していた。


 のちに、、必要な情報を、すべて暗記しておくため。


 まぁ、奥様の執事になる気などないレオにとっては、明らかに無駄な作業だが、それでも、別邸の中を自由に動き回れるの今の状況は、レオにとっては都合がよかった。


(駆け落ちを成功させるまで、絶対にバレないようにしないと……)


 だが、計画が順調にすすみつつも、ここはあくまでも敵地だと、肝に銘じる。


 きっと怪しい動きがあれば、すぐさまメイドを介し、結月の両親に伝わるだろう。だからこそ、この先も、細心の注意をはらいなくてはならない。


 ――ガチャ!


「五十嵐さん」

「……!」


 するとその瞬間、書庫の扉が開き、奥様の専属のメイドである戸狩とがりがやってきた。


 戸狩は、まだ25歳の若いメイドだ。

 長い黒髪と、キリリとした佇まい。


 少し気難しそうな顔つきをした彼女は、母の跡を継いで、美結のメイドになったらしい。


 なんでも、戸狩の母親は、もともと美結専属のメイドだったらしいのだが、事故で他界したため、その母親の役目を、そのまま引き継ぐことになり、今は、こうして美結専属のメイドをしている。


 しかも、高校にはいかず、15歳の時から、この別邸で働いているようで、まだ若いが、そこそこの古株で、今や、この別邸の使用人たちを総括する──メイド長でもある。


「五十嵐さん。私が指示した資料は、すべて覚えましたか?」


「はい、じっくりと覚える時間を頂いたので」


「そうですか。では、旦那様のご友人である、安楽様の御子息のお名前とご年齢は?」


「長男・信孝様、45歳。次男・勝冶様、39歳」


「正解です。では、奥様の好きなワインの銘柄は?」


「シャルツホーフベルガー・リースリング・トロッケンベーレンアウスレーゼ、ですね」


「はい、その通り。では、あさっての天気は?」


「雲のち雨です」


「さすがですね。どんな質問にも素早く答えるなんて」


 戸狩を見つめたまま、レオは無言で微笑む。正直、イジメられているのだろか?そう思うこともある。


 なぜなら、この戸狩は、よくこうして、レオがしっかり覚えているか、抜き打ちで、チェックしてくるからだ!


 だからこそ、たとえ、この先必要のない知識だとしても、暗記しないわけにはいかず……


「いいえ。戸狩さんほどではありませんよ」


 心の中で、多少なりと悪態をつきながらも、レオは謙遜しつつ、先輩である戸狩に語りかけた。


 ここで、この奥様付きのメイドを敵に回すのは、どう考えても得策ではない。ならば、上手く取り込んでおかないと


「春になったら、戸狩さんの下で働くことになりますので、どうぞ、お手柔らかにお願いします」


 レオは、そう言うと、また爽やかに笑いかけた。


 もちろん、この別邸で働く気などサラサラないが、あくまでも、普段通りの笑顔を向け、戸狩に取り入ろうとするが、戸狩が、そんなレオの言葉に


「何を言っているのですか? あなたは、ここに執事として来るのですよ。一番でも、我々を総括する立場です。だからこそ、しっかり覚えておいてください。こちら来てから、使だと言われないように」


「は、はい……心しておきます」


 下っ端!?

 使えない執事!?


 これは、完全に嫌われているのではないだろうか?そんな不安が微かによぎった。


 毎度のごとく、ちくちくちくちくと言葉を通して、鋭い棘が突き刺さってくる。


 この環境で、執事として、この別邸に配属されるなんて最悪だ。まさに、ストレス過多で、胃に穴があきそう。


 とはいえ、戸狩の気持ちもわからなくはなかった。なぜなら、今までこの別邸に、執事はいなかったから。


 洋介には、秘書兼運転手の黒沢がついていたし、美結には、このメイドの戸狩がついていたためから、実質、執事など必要がなかったのだ。


 そんな中、自分より年下の男が、それも今年執事になったばかりの新米が、突然自分たちの上に立つべくして、引き抜かれた。

 

 この別邸で働いてきた者たちにとっては、あまりいい気分ではないかもしれない。


「分かりました。この別邸の皆さんの足を引っ張らないよう、三月までに必要なことは覚えておきます。……しかし、奥様はなぜ、こんな私を別邸の執事にとおっしゃったのでしょうか? お嬢様がご婚約されたあとは、他の使用人同様、お払い箱だと思っていたのですが」


 あくまでもだと言いきかせながら、レオは戸狩に問いかける。


 結月の屋敷と違って、別館の使用人は十分足りていた。今ここで増やす必要など、本来はない。


 とはいえ、執事になれと言われたとき、美結に直接『結月の執事にしておくのは、もったいない』とは言われたため、それなりに気に入られているのはわかっていた。


 だが、他に何か理由があるのかと、多少なりと勘繰れば、戸狩は、平然とした様子で答えた。


「あぁ、それは、でしょうね」

「はい?」


 一瞬、真顔になる。それは、あまりにも予期せぬ言葉で、レオは徐に眉をひそめた。


「か、顔……ですか?」


「はい。奥様、とてもなんです。五十嵐さんは、執事としても優秀ですが、それ以上に、手放すには惜しいと思ったのでしょう」


「…………」


 もはや、絶句……というか、なんというか、愛想笑いすらできないほど、困惑する。


 なんだそれ。

 つまり顔で選ばれたってこと??


「今だから言いますが、実は五十嵐さんを執事として採用する時、旦那様と少し揉めたんですよ」


「え?」


「お嬢様の傍に若い執事を置くのはどうかと、旦那様は反対されていましたから。でも、奥様が押し切ったんです。『私、あの顔好きなんだもの』といって。よかったですね。あなただったら、執事として採用されてませんよ」


「!?」


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