第175話 執事と恋人


 その後、夜は静かに時を刻んでいた。


 結月を抱きしめて、しばらく、どれだけの時間が経ったかは分からないが、髪を撫でながら、レオは優しく結月に語りかけた。


「もう……平気?」


 そう言って、泣き止んだ結月に囁けば、レオの胸に顔を埋めた結月は、コクリと頷いた。


 できるなら、まだ、こうしていたい。だが、屋敷の中にいる限り、自分たちは、まだ、お嬢様であり、執事でもある。


 ならば、ずっと、このままという訳にはいかない。


「もう、大丈夫……ごめんなさい。燕尾服を濡らしてしまったわ」


「大丈夫だよ、このくらい。すぐに乾く。それより髪を乾かそう。風邪をひくといけない」


「……うん、そうね」


 二人ゆっくりと離れ、そのまま、ドレッサーの前へと進んだ。


 キングサイズのベッドの隣にあるドレッサーは、イタリアの職人が作ったもの。


 華美な装飾がほどこされた、その鏡の前に立てば、執事は普段通りドライヤーを手に取り、髪を乾かす準備を始めた。


「あ、ダメ!」

「!?」


 だが、その瞬間、急に結月が、ダメだと言い出して、レオは呆気に取られた。


「ちょ、結月……っ」


 何がダメなのか?

 見れば結月は、自分から、必死にドライヤーを奪い取ろうとしていた。


「……何やって」


「ドライヤー、貸して。今日から、自分で乾かすから」


「え? でも……これは、執事オレの仕事で」


「だから、これから私の前で、仕事をしなくていいわ。熱があるのよ! レオは、そこで何もせず、黙って見てて!」


 すると、結月が強引にレオを押しやると、バランスを崩したレオは、あっさりベッドの上に座り込んだ。


 そして、そのレオの手から、難なくドライヤーを取り上げた結月は、そそくさとドレッサーまで戻り、髪を乾かす準備を始めた。


(自分でねぇ……)


 頑なに、やるという結月。

 それをみて、レオはやれやれと言った様子で頬杖を付く。


 幼い頃も、こうして結月のわがままに応えてやることがあった。見ていられず、お節介をやこうとする自分に「黙って見てて!」と、よく怒られたもので……


 だが、その頃を思うと、今のこの瞬間が、無性に愛しくなった。


 今の結月は、自分を『執事』ではなく『恋人』としてみている。


 あの頃のように、家族として見てくれている。


「ふふ……」


「? なに、笑ってるの?」


「いや……じゃぁ、俺はここで、なにもせず、黙って見てればいいんだな?」


「うん。そうよ。何もしちゃダメよ」


「はいはい」


 軽く相槌を打って、レオは大人しく待つ。


 結月を見れば、ドライヤーをコンセントに差し込み、なんとか自分の力で、髪をかわかそうとしていた。


 だが、レオがあまりにも、じーーーーーっと、結月を見つめるものだから、さすがに集中できなかったらしい。


「ちょ、ちょっとレオ? そんなにジーと見ないで?」


「どうして? っていったのは、結月だろ?」


「そ、そうだけど……そんなに見つめらると、なんだか、やりにくいわ……っ」


「気にしなくていいよ。それとも、やっぱり俺がする?」


「ダメ!!」


 すると、またもやダメと返事が返ってきて、レオは肩を竦めた。


 仕事と言う名のこのを、結月自身に奪われるとは思わなかった。


 だが、決して、悪い気はしない。


 なぜなら、これは、結月の優しさだから。

 自分の身体を気遣う、優しくて温かい──思い。


「あ、結月。それはダメだ」

「へ?」


 だが、その後、髪を乾かし始めた結月を、レオが慌てて静止する。


「いきなり熱風なんて当てたら、髪が傷む。まずは、髪の水分をある程度、タオルで拭き取ってから」


「え?……あ、水分?」


「うん……て、違う。そんなにゴシゴシ拭くと……やさしく包み込むようにだよ。俺が、いつもやってるだろ?」


「えっと……いつも?」


 執事のやり方を思い出しながら、見様見真似でチャレンジする、お嬢様。だが、残念ながら、全く出来ていなかった。


「お前、毎日、何を見てたんだよ」


「み、見てないわ! だってレオは、私の後ろにいるもの!」


「屁理屈いうな。やっぱり、俺がやるよ。綺麗な髪が台無しになる」


「……っ」


 業を煮やしたレオが、ベッドから立ち上がり、結月の元に歩み寄ると、結月は悔しそうに唇をかみ締めた。


「やっぱり、私……全然ダメね」


「……ぁ、ごめん。言いすぎた?」


「うんん。私、本当は、この8年で、色々勉強しておくつもりだったの。レオが迎えに来るまでに、外の事をしっかり学んで、足でまといにならないようにしようって……だけど、記憶を無くしたせいで、その8年を、全部無駄にしてしまったわ」


「…………」


 不甲斐ない自分を憂いているのか、結月は、涙目になり呟いた。


 確かに、8年あれば、多くの事を学べただろう。

 生きていくための術を──


「結月」

「……っ」


 だが、傷心する結月に、レオが声をかければ、結月は、恥じらいながらも、またレオに視線をむけた。


「レオ……?」


「8年なんて、すぐ取り戻せる。前にも言っただろ? 分からないことは、全部、俺が教えてあげるって」


「全部?」


「うん、全部」


 頬に指を這わせ、お風呂上がりの瑞々しい肌を撫でる。


 分からないことは、全て教えてあげる。


 むしろ、たくさん教えてあげたい。


 このまっさらな女の子を、全て、自分だけの色に染め上げてみたい──…


「じゃぁ……まずは、髪の手入れの仕方から」


「え?」


 だが、その後、クスリ笑った執事に、結月はキョトンと首を傾げた。


 なんだかその笑顔が、とても意地悪なものに見えたから。


「え? あの、レオ? 何考えてるの?」


「ん? だから、教えてあげるって言っただろ。結月の身体が、しっかり覚えるように、手取り足取り、ね♪」



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