第174話 逢瀬


 それから、数時間がたち、夜を迎えた屋敷の中は、普段より静かだった。


 まるで、昼間のざわめきが夢だったのかと思うほどの、物静かな夜。


 だが、それは決して夢ではなく、普段通り、屋敷の業務をすませたレオは、その後、コツコツと靴の音を響かせ、お嬢様の部屋へと向かっていた。


 階段を上り、廊下を進む。


 すると、その先に、一際、装飾に凝った両開きの扉が見えた。


 この屋敷に来てから、何度と出入りした、お嬢様の部屋の扉。だが、見慣れたはずのその扉が、今日は、全く違うものに見えた。


 心拍が微かにあがれば、自然と身体は熱を持つ。


 なぜなら、やっと思い出したのだ。


 結月が、俺のことを──…





 ──コンコンコン


「……はい」


 扉をノックすれば、中から、お嬢様の声が聞こえた。


 やわらかく、可愛らしい声。


 もう、何度と耳にしたその声を、まるで、咀嚼するように噛み締めた。


 結月が、中にいる。


 そう理解した瞬間、レオは今一度、呼吸を整え、ゆっくりとドアノブを回した。


 この時間、お嬢様は、入浴を終え部屋に戻る。そして、その濡れた髪を乾かすのが、執事としてのレオの日課だった。


 毎夜、部屋に訪れては、他愛もない話をした。髪を梳きながら、何度と、思い出して欲しいと、また、俺を愛して欲しいと、心の中で呼びかけた。


 だが、その思いも、全て報われた。


 できるなら、昼間、抱きつかれた時から、早く二人きりになりたいと思っていた。


 だが、いざ二人きりになると思うと、何を話せばいいか、分からなくなった。


 それでも扉を開け、部屋に入れば、レオは、普段どおりの所作で、その扉を閉める。


 パタン──と扉が閉まった瞬間、結月の香りが鼻孔を掠めた。


 お風呂上がりの心地よい香り。まるで、花のようなその香りは、自分がフランスから取り寄せた、入浴剤の香りだ。


 執事として仕え、執事として毎夜この部屋に訪れた。


 だが、今の自分が、執事として振舞っているのか、はたまた恋人として振舞っているのか、自分でも、よく分からなかった。


 部屋の中は、とても静かで、まるで、時間が止まったかのよう。


 だが、その心臓は、痛いくらい鼓動を刻んでいて、レオはふと、この屋敷に、初めて訪れた日のことを思いだした。


 あの日、レオは、8年ぶりに結月に再会した。


 だが、その愛しい人に、レオは「初めまして」と返された。


 とても、ショックだった。

 忘れられていたことが


 なにより、彼女の心の中から、自分が消えてしまったことが。


 だけど──…



 その後、ゆっくりと振りむけば、レオは、あの日と同じように、結月を見つめた。


 だが、レオが目にした時、結月は、もうレオのすぐ側まで来ていた。


 あの日は、窓の前に佇み、遠巻きに執事を見つめていたお嬢様。


 だが今日は、結月の方から、扉の前まで駆けより、ほんの2メートルほどの近い距離から、レオを見つめていた。


 目が合えば、呼吸が止まる。


 息もできないくらい、胸の奥から何かが迫り上がってくる。


 すると、レオを見て、結月が涙を流した。


 まるで、思いが溢れて止まらないというように泣き出す結月をみて、レオは、そっと両腕を広げた。


 まるで『おいで』と誘うように

 すると、結月は……


「ッ……レオ!」


 そう言って、レオの腕の中に飛び込んできた。


 何を話せばいいか、分からなかった。

 だけど、言葉なんて必要なかった。


 レオは、味わい尽くすように結月を掻き抱くと、何も言わず、その熱に溺れた。


 髪を撫で、その香りに酔い、ただただ、柔らかな肌に頬を寄せる。


 すると、結月は、またレオと名を呼んで、その声を聞いただけで、胸の奥が、熱く震え上がる。


 喜びや、愛しさ。


 そんな簡単な言葉じゃ言い表させないくらい、火照るような、泣きたくなるような感情。


 やっと、思い出してくれた。

 やっと、呼んでくれた。


 五十嵐ではなく、と──





「レオ……ッ、ごめん……ごめんなさい……っ」


 だが、その後、結月はレオの腕の中で、何度と謝り始めた。


 記憶をなくしていた、8年間の懺悔。


 忘れられたくないと泣いといた結月が、レオのことを忘れてしまっていた。


 だからこそ、結月は、泣きながら何度と謝った。


 だが、レオはそんな結月の身体を、より強く抱きしめると、切なく漏れた、その声を優しく奪う。


「謝らなくて、いい」

「……っ」


 そう言って、囁きかければ、結月はまた涙を流し、レオの胸に顔をうずめた。


 だが、謝罪なんて必要なかった。


 今、こうして思い出してくれた。

 だだ、それだけでよかった。


 なにより、その姿をみれば、結月がどれほど忘れたくなかったのかが、よく伝わってきた。


 忘れたくなかった記憶を

 好きな人との大切な約束を


 忘れてしまい、思い出せずにいた、この8年間。


 きっと、結月も、苦しんでいたのかもしれない。


 記憶のない、あの『空っぽの箱』を見つめながら、心の底から、必死に叫んでいたのかもしれない。


 忘れないで。

 お願い、早く思い出して──と。






 ひとしきり抱き合い、その腕を緩めると、レオは濡れた結月の頬に優しく触れ、その涙を拭った。


 再び見つめ合えば、少しだけ前かがみになり、顔を近づける。


 すると、結月もまた自らかかとを上げ、どちらともなく唇が触れ合わせた。


 触れるだけの、優しいキス。


 すると、その瞬間、ふと幼い日のことを思い出した。


 神様の前で、キスをした、あの日のことを……


  

  病めるときも

  健やかなる時も


  喜びの時も

  悲しみの時も


  常に相手を敬い慈しみ


  死が二人をわかつまで

  愛し抜くことを誓いますか?



 そう言って、お互いの中に約束を封じ込めた、あの──別れの日。


 だが、まるで子供のようなそのキスは、あの日、別れてから、今日までの苦痛や不安を、全て洗い流してくれるようだった。


 甘く、優しく、撫でるように、そっと口づけた、それは、互いの心を癒すように、ゆっくり静かに、二人の中に染み渡る。



「っ……ん」


 だが、一度唇を離せば、呼吸をしたあと、また口付けた。


 一回では足りないとばかりに、二人は何度と求め合う。


 それは、まるで、言葉を交すかのように。




 ──会いたかった


       ──うん、私も


 ──約束覚えてる?


       ──覚えてる。全部思い出した


 ──もう、離したくない


       ──私も離れたくない


 ──愛してる


       ──うん。私も、レオを誰よりも愛してる




 キスと共に、思いを交わす。


 まるで、あの日、閉じ込めた約束を、一つ一つ確認するように。


 そして、口付けが止むと、レオは、今一度目をあわせ、結月を抱きしめた。


 そして……





 そう言って呼びかければ、結月はレオを見つめて、ほほえんだ。


 交わす言葉なんて、その一言で十分だった。


 その一言に、全ての思いが込められていた。



、レオ……っ」




 涙声が響く、静かな屋敷の中。

 二人は、8年ぶりの逢瀬を喜んだ。


 しばらく肌を寄せ、抱き合えば、結月の瞳からは、また涙が流れ落ちる。


 愛しい人を思い出せた、喜びの涙。


 そしてレオは、その涙が止まるまでの間、ずっとずっと、結月を抱きしめていた。




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