第167話 執事と使用人
「駆け落ちなんて、馬鹿な真似をするのは、およしなさい!」
「……っ」
びりびりと、矢野の言葉が脳内を支配する。
それはまるで、全否定とも取られるような発言で、結月は、目尻にたまった涙をぐっとこらえた。
「矢野……っ」
「お嬢様、私たちはこれまで、ずっとお嬢様を見てきました。正直に申しまして、旦那様たちの仕打ちは、目に余るものがございます。だから、お嬢様のお気持ちが、分からないわけではありません。でも、駆け落ちなんてしても、うまくいくはずがありません! お嬢様がいなくなれば、旦那様たちは血眼になって探します。逃げたところで、安心した生活なんて送れません。何より、もし見つかったら、今以上にお嬢様への監視が厳しくなります。それどころか、五十嵐さんが、警察に捕まってしまう場合だって……!」
「……っ」
その矢野の言葉は、結月の、そしてレオの胸に深く突き刺さった。
矢野の言葉は、もっともだ。
駆け落ちなんて、成功するはずがない。
それに、結月は阿須加家の一人娘。
いなくなった後、あの親たちが、探さないはずがなく、何より世間体と跡取りのことを人一倍気にしているあの親たちが、自分の娘が『執事と駆け落ちした』なんて、世間に公表するはずがない。
それは、後の縁談にも差し支える。だからこそ、あいつらは、こう話すのだろう。
娘が執事に、誘拐されたと──
「考え直してください。五十嵐さんも。あなたは、もっと理知的な人間のはずです。駆け落ちが、どれほど無謀なことか、あなたなら分かるでしょう。それに、本気でお嬢様のことを思うなら」
「俺に、身を引けと?」
「……っ」
レオの言葉と同時に、また静寂が生まれた。
まるで一触即発とも言わんばかりの空気に、その場にいた全員が息を飲む。
これまでの柔らかい物腰を一切とっぱらい、まるで威嚇するような鋭い眼光を向ける執事。
だが、そんな相手に怯むことなく、矢野は話し続けた。
「そうです。執事なら執事らしく、身の程をわきまえなさい!」
諭すような言葉と同時に、レオが目を細める。
矢野の瞳を見れば、結月の身を案じているのがよく伝わってきた。幼い頃から結月を見てきたからこそ、心を鬼にして訴えているのだろう。
駆け落ちをして、好きな男と暮らすことにではない。連れ戻されたあとの、二人の末路を案じて──
すると、矢野の思いを痛切し、レオは静かに目を閉じた。
できるなら、この話は、結月の前ではしたくなかった。知らぬまま、連れ去ってあげたかった。
だが、この使用人たちを納得させるには、何もかも包み隠さず話すべきなのだろう。
結月をこれまで守ってきた、家族のような人たちだからこそ……
「それは、できません」
「……っ」
ハッキリと言葉を返せば、矢野は固唾を飲み、また黙り込んだ。
真剣な表情で見つめる執事の瞳は、穏やかだが、どこか揺らめく炎のように熱い意志を感じた。
彼は本気だ。本気でお嬢様を、この屋敷から連れ去る気でいる。
「ちょ、ちょっと、二人とも落ち着いてください!」
すると、恵美が慌てて二人に声をかけた。
空気が明らかに悪い。だが、その静止を聞くことなく、レオは話し続けた。
「俺は、結月を救うために、執事になりました。それだけ、彼女のことを愛しています。でも、だからこそ、もうこんな腐りきった場所に、これ以上、彼女をおいておきたくない」
「腐りきったって……ッ」
「腐ってますよ。あなた方もわかってるはずだ。あの両親に、結月がどれだけ傷つけられてきたか」
「……っ」
執事の訴えに、矢野を始めとした全員が、結月のこれまでの人生を思い浮かべた。
女として生まれたが故に両親から失望され、まるで捨てられかのように、この屋敷で一人暮らしていた。
甘えたくとも、側に親はおらず、心を許せるのは、血の繋がらない使用人たちだけ。
誕生日ですら会いには来ない両親は、結月が従順なのを良いことに、無理やり淑女としての教養を身につけさせた。
お茶にピアノにバイオリン。
まるで、人形のように思うままに操る。
そこに愛情は一切なく。
正月ですら『新年早々、結月の顔は見たくない』と言った親たちは、得意先への挨拶回りを優先し、結月の元に訪れるのは、いつも7日をすぎた頃だった。
それでも、両親に気にいられようと、健気にいいつけを守る結月に、使用人たちは、皆、心を痛めていた。
「それは、分かります。でも……」
「わかるなら、今一度考え直して頂きたい。俺だって一度は考えました。アイツらが『自由に進路を決めていい』といってきた時に、このまま心を入れ替えるのなら、結月の将来のためにも、身を引くべきかと……だけど、あいつらは、何も変わらない。これまでも、そしてこの先も、ずっと結月を苦しめる続けるだけだ。その証拠に、結月は高校を卒業したら、餅津木家で暮らすことが決まっています」
「え?」
その瞬間、結月が目を見開いた。
まるで、動揺を隠しきれないといった様子で、結月がレオを見つめる。
「餅津木家で……?」
「ちょ、ちょっと待ってよ! そんな話聞いてない! 餅津木家で暮らすって、どういうこと!? お嬢様、結婚するの」
すると、それ同時に愛理が、また声を荒らげ、レオは
「いいえ、結婚はしません」
「え? じゃぁ、なんで」
「結月は、冬弥の子を身篭るためだけに、餅津木家にいかされます」
「え……?」
愛理が、さし迫り問い正せば、その衝撃たる言葉に、女性陣が一斉に混沌する。
無理もない。結婚はしないが、子供をと言われれば、困惑しない方がおかしい。
「な……何を言っているのですか?」
すると、状況が呑み込めない恵美が、更に問いかけた。レオは一度、結月に目を向けると、その後、また話し始めた。
「先日、餅津木冬弥が、旦那様たちにある条件をだしました」
「条件?」
「はい。『結月が高校を卒業したら、餅津木家に招き入れたい』と……つまり同棲の申し入れです」
「な! 同棲って! ありえません! 名家の娘が、婚姻もせずに男性と同棲だなんて」
「そうですよ。本来ならありえない。だけど、その前に、阿須加家が、餅津木家にありえない条件をだしているんです」
「ありえない……条件?」
「はい。阿須加 洋介は『結月と籍を入れるのは、子供を授かってから』と餅津木家に提言している」
「……っ」
その瞬間、愛理と恵美が息を飲み、矢野が険しい顔つきで、レオを見つめた。
辺りの空気は冷えきり、だが、その空気を切り裂くように、レオが強くに言葉をつなぐ。
「春が来れば、結月は、信頼する使用人たちを全て奪われ、たった一人で、餅津木家に行かされます。冬弥の子供を身ごもるためだけに」
「そんな……っ」
「待って、使用人全てって、五十嵐くんは」
「俺は、結月がこの屋敷を離れたあとは、阿須加 美結の執事になるよう命令されています」
「え、奥様の……?」
「はい。最近、別館によく呼び出されていたのはそのためです。春までに、別館の業務を全て覚えろといわれました」
「そんな……だから、五十嵐さんは……っ」
「それに、このことは、結月に相談もなく、勝手に決められました。それに、まだ、冬弥との間に、すぐに子供ができればいい方です。もし、授からなければ、今度は相手を変えて、それをひたすら繰り返えすことになります。子供を……跡取りとなる男児を産むまで、ずっと。あなた方は、本当にそんな人生が、結月にとって幸せだと言えますか?」
「……っ」
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