第148話 復讐と愛執のセレナーデ ③ ~独白~


(なんだ、この箱……)


 引き出しの中に入っていたのは、正方形の箱だった。


 淡いブルーの小さな箱。


 まるでアクセサリーでも入っているかのような、その箱を手に取れば、それはとてもとても──軽かった。


(……何が、入ってるんだろう?)


 ふと気になって、俺は、その箱を開けてみることにした。


 そっと蓋を上に持ちあげれば、それはあっさり開いた。


 そして、その中には


「空っぽ……?」


 何も、入っていなかった。


 そう、そこにあったのは、中身のないただの箱で、俺は、その空っぽの箱を見つめながら、ただただ困惑する。


 父はなぜ、こんな空の箱をとっていたのだろう。


 それも、こんな目のつく場所に、大切そうに引き出しの中にしまって……


 意味が分からず、箱を見つめていると、ふと引き出しの奥に、手帳が入っているのが見えた。


 見覚えのない『黒革の手帳』


 父が、仕事で使っていた手帳とも違う、真っ黒な、真っ黒な──手帳。


(こんな手帳……持ってたっけ?)


 そっと箱を机の上に置くと、俺は恐る恐る、その手帳を手に取った。


 ぱらぱらとめくってみれば、そこには


 父の字で

 父の言葉で


 父の思いが、たくさんつづられていた。




 ===================


 ××/4/14


 今日は、レオの10歳の誕生日。そして、明日は君の命日。息子の誕生日を、母親の命日にしなかった君は、とても息子思いな優しい人だね。


 最期まで必死に生きようとしていた君の姿を、俺は今でもよく覚えてる。会いたいな、君に。それなのに、最近は夢の中ですら会えないね。


 俺が、夢を見ないほどに、疲れているのもあるかもしれないけど、出来るなら、明日、会いに来てほしい。


 一目でもいいから、夢の中でもいいから

 また、紗那に会いたい。


 ==================



「……さ、な?」


 それは、母の名前だった。


 そこには、父の母に対する想いが、何枚にも、何ページにも渡って、綴られていた。


 そして……



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 ××/12/19


 来年は、レオが中学生になる。

 制服に学用品、思ったよりもお金がかかりそうで、また、君に頼らないといけないみたいだ。


 できるなら、これだけは残しておきたかった。これは結婚する時、君のために、散々悩んでプレゼントした指輪だったから。


 君は、とても喜んでくれたね。それなのに、すまない。こんな駄目な父親で、本当にすまない。


 だけど、どうかレオのためにも、許してくれ。


 ==================



「……指…輪?」


 読んだ瞬間、ゆっくりと顔をあげれば、机の上においた『箱』が目に入った。


 何も入ってない、空っぽの箱。

 中身のない、空っぽの箱。


 だけど、そこに入っていた物が、何だったのかを理解した瞬間、手帳を手にした指先が震え始めた。


 そういえば、あれだけあった母の物は、今、どこにあるのだろう?


 父が大切にしていた『母の形見』は


 今──……



「……嘘だ……ッ」


 嘘だ、嘘だ、嘘だ──!


 瞬間、弾かれたように立ち上がった俺は、押入れをあけて、中の物を全て引っ張り出した。


 埃っぽい段ボールも、そこに入っていた缶や袋も、父のタンスも、何もかも全部ひっくり返したけど


「ない……っ」


 ない、ない、どこにもない……!


 母の服も、母の髪飾りも、母の使っていたものが、なにもかも。


「………嘘…だろ……っ」


 父の部屋を全て探しきり、母の形見が何も残っていないのだと気づいた瞬間、荒れ放題の部屋の中で、俺は一人崩れ落ちた。


 父は、とても母を愛していた。

 それは、子供の俺にも、よくわかるほど。


 だけど、父は、そんなにも愛していた母の形見を売って、俺を、育てていたのだと。


「……ぅ、そ……だ……っ」


 何度と、そう呟いたのは、信じたくなかったから。


 だけど、何度、箱の中を覗きこんでも、そこには何も入っていなかった。


 父が母のことを思い、プレゼントした『指輪』は、もう売り払われた後で


 何の価値もない、その箱に

 虚しく空虚な、その箱の中身に


 堪えていたはずの涙が、ぽろぽろと溢れだした。


「っ、そん…な……ッ」


 知らなかった。

 そんなにも、お金に困っていたなんて


 気づかなかった。

 あんなにも愛していた母の形見を


 父が、手放していたなんて──



「…、ぅ……っ」


 震えながら、再び父の手帳を取れば、その最後のページを開いた。


 するとそこには、父が亡くなる前日の日記が書かれていた。


 母に向けて書いた、最後の言葉──



 ===================


 ××/1/28


 明日、社長のご友人たちが、ホテルに宿泊するらしい。もう何度と、お得意様の接待に駆り出されているけど、さすがに、もう疲れてきた。


 君もレオも、ホテルマンとして働く俺を、カッコイイと言ってくれたね。


 でも、あの会社は、悪魔の会社だ。


 容姿のいい従業員を、ホストやホステスのように扱って、客のご機嫌をとってる。


 お陰で、もう何人と従業員が辞めてしまった。俺も辞められたらいいけど、脅されていて、そうもいかない。


 また、明日も、嫌いなお酒を飲みながら、無理に笑わなければいけないのだろう。


 そんな俺を見て、君は何を思うだろうね。


 見損なったと、笑うだろうか?

 最低だと、怒るだろうか?


 もう、疲れた。

 疲れすぎて、全く夢を見ない。


 君に会いたいのに、もう、それすらも叶わない。


 いっそ、俺が会いに行こうか?


 そうすれば、もう、苦しむこともない。




 ==================




「………」


 静かな部屋の中、そのページを見つめたまま、俺は動けなくなった。


 会いに行く? 誰に? 母さんに?


 その一言は、俺の心臓を深く深くえぐり取り、痛いくらい訴えかけてきた。


 涙で霞む文字を、何度と追いかけながら、父の最期の言葉を噛み締める。


 あの日、父がお酒を飲んだのは、ホテル側の命令だったのだと


 そして、あの日、父が亡くなったのは──…



「……、あ゛ぁ…っ」


 震えがとまらず、涙も止まらず、何かにすがりたいばかりに、俺は、手帳を持ったまま部屋を飛び出した。


 廊下を駆け抜けて、仏間に一人座り込んでいた祖母の元に駆け寄ると


「ばぁちゃん──ッ!」


 一人では抱えきれなかった。

 苦しくて、悲しくて、仕方なくて


「ばあちゃん、これ……っ」


 震える手で、手帳を差し出せば、混沌とする思いを、必死に紡いだ。


「と……父さん……本当に……事故、だったのかな?」


 あの日、父が川に落ちたのは、本当に事故だったのだろうか?


 愛していた母の形見を、全て手放し

 夢も見れないほど疲れはてていた父は


 悪魔たちに

 身も心も掠め取られていた父は


 自ら川に、飛び込んだのではないかと……



「父さん……は……っ」


「あらあら、玲二。どうしたのかねぇ、そんなに泣いて……」


 仏間に静かに声が響くと、祖母はぎゅっと俺を抱きしめてきた。


 痩せ細った手は、老いた老人の手で、だけど、その温もりは、大好きな家族の優しい熱で……


 でも『玲二』と言われたその言葉に、今まで堪えていたものが、一気に爆発した。


「だから、俺はレオだって言ってるだろ!!」


 そう叫んだあとは、もう止まらなかった。


「なんで! なんで思い出さないんだよ! なんで、忘れてるんだよ!! なんで、笑ってるんだよ! 父さんが……自分の息子が、自殺したかもしれないのにッ!!」


 叫び、怒鳴りつけ、声を震わせたあと、また泣き叫んだ。


「思い……出して……ッ」


 思い出して

 忘れないで


 俺のことを

 父さんのことを


 しっかりと

 その心に刻みつけて──…



 それは、ほんの小さな願いだった。


 せめて、この悲しみを

 家族を亡くした、この痛みを


 共に、分かちあいたい。


 だけど祖母は、そんな俺を再び抱きしめると


「大丈夫よ、玲二……大丈夫」

「……っ」


 そう言って、頭を撫で、また微笑んだ。


 まるで、我が子をあやす母親のように


 残酷で

 優しくて

 愛おしい、その姿に



 また、涙が溢れた。









 人は、忘れる生き物らしい。



 だけど、忘れてしまうのは


 ある意味



 幸せなことなのかもしれない。




 この、哀しみも


 この、苦しみも


 この、怒りですら



 何もかも、消えてくれるのなら




 いっそ


 忘れてしまいたいと思った。




 この涙が枯れる頃


 もし、それが叶うのなら




 どうか、この悲しい記憶を




 根こそぎ、奪い取ってほしい。






 そんな事を考えながら







 俺は、ただひたすら






 泣き叫んでいた。






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