第89話 執事とモチヅキくん


「旦那様、お車の用意ができました」


 阿須加家の別邸にて、スーツを着た洋介に強面の男が声をかけた。


 男の名は、黒沢くろさわ 人志ひとし

 色黒で厳つい風貌のこの男は、ここ10年ほど洋介の秘書として働いてきた男だった。


「お嬢様は、もう屋敷を出られたそうです」

「そうか……」


 黒沢が声をかけると、洋介と美結は餅津木家のパーティーに向かうため、車の中に乗り込んだ。


 そして、その後、ゆっくりと車が動き出すと


「どうしたんだ美結、浮かない顔をして」

「…………」


 自分の真横で、どこか不機嫌そうにする妻の姿を見て、洋介が問いかける。


 しっかりとモスグリーンのドレスを着て着飾ったにも関わらず、美結のその表情は、全く晴れやかには見えなかった。


「別に。ただ、これから結月の顔を見るのかと思うと……」


「お前は相変わらず、結月が嫌いだな」


 軽く失笑して洋介がそういえば、美結は車窓から外を見つめた。


「結月、着てくるかしら……あのドレス」


「着てくるさ。とても喜んでいたと言っていたじゃないか」


「えぇ……わざわざ電話でお礼まで言われたわ。馬鹿な子ね。なんの疑いも持たず素直に喜んで……大体結月は、もっと清楚なドレスの方が似合うのよ。あんな派手なドレス」


「まぁ、そう言うな。に合わせるのは当然のことだろう」


 その言葉に、足を組み、窓の外を見つめている美結は、その瞳をさらに細める。


「まるで貢ぎ物ね。それに、まさかあんな条件だすなんて思わなかったわ」


「あんな条件?」


「物事には、順序ってものがあるでしょ」


「あぁ、あの話か。今更、何を言うんだ。お前だって忘れたわけじゃないだろう。私たちがどれほど苦労したか、これも結月のためだ。それに、また8年前のようになっても困る」


「…………」


 8年前──その夫の言葉に、美結は深くため息をつくと


「結月がになってよかったわね。餅津木とのことなんて、もうすっかり忘れてるんだから……」


「そうだな。おかげで、今度こそ正式に、餅津木家と婚約させることが出来る」


「洋介……私、あなたと結婚したことは後悔してないけど、この阿須加に嫁いだことは、死ぬほど後悔してるわ」


「それはまた、えらい言われようだな」


 走る車は、パーティ会場に向かう。





 ✣✣✣




 そして、その頃──洋介たちよりも先にホテルに到着した結月とレオは、丁度、地下駐車場に車を停めたところだった。


 阿須加家が経営するホテルの中でも、まだ新しいこのホテルは、宿泊は勿論、結婚式にも利用される高級感溢れるホテルで、中にはレストランやバー、更には美容室やプールまで。


 そして、そのホテルを貸し切って、本日行われるのが、餅津木グループの長男・春馬の誕生パーティだ。

 今年28歳になるの春馬は、数年前、銀行頭取の娘と結婚し、今は一児の父らしい。


 急成長中の大手企業の次期社長のパーティーともなると招かれるゲストも錚々たるメンバーで、結月は執事から受け取った来客リストを見つめながら、顔を顰めていた。


「さすがに餅津木家のパーティーともなると、規模が大きいわね」


「幸蔵様(春馬の父)は、とてもやり手の方らしいですから、きっとお知り合いやご友人の方も多いのでしょう。それに、次期社長として春馬様の顔を覚えてもらうためもあるかと、盛大に祝うのは当然です」


「そうねぇ」


「それより、先にロビーに向かいましょうか。直に、旦那様たちも到着するはずです」


「えぇ……」


 結月がそう言うと、レオは車から降り、そのまま後部座席の扉を開けた。


 いつものように手を差し出すと、結月はその手を取り、車からおりる。


「きゃッ──」

「!?」


 だが、その瞬間、バランスを崩した結月をみて、レオは咄嗟に自分の腕の中に引き込んだ。


 倒れそうになった身体を難なく受け止めると、結月の体は、すっぽりレオの胸の中に収まってしまった。


 思ったより、密着してしまった身体に動揺する。


 赤いドレスを着た結月は、とても色っぽく、大胆に開いた胸元は目のやり場に困るほどだった。


 視線が合えば、化粧をして、いつもより色付いた頬と、艶のある唇が視界に入った。


 普段はつけない香水は、まるで誘うように甘い香りを漂わし、もし、今の立場が執事ではなく、恋人だったならば、このまま抱きしめて、キスのひとつでもしてしまうかもしれない。


「大丈夫ですか、お嬢様」

「ぇ、えぇ、ごめんなさい」


 だが、そんな感情を必死に押し殺して、あくまでも執事として振る舞うと、結月はレオの胸の中で恥ずかしそうに答えた。


 心なしか赤い頬。

 その可愛らしい姿には、自然と頬が緩む。


「お気をつけください。その靴、いつもよりヒールが細いですから」


「わ、分かってるわ」


「本当に分かっておいでですか? 会場内には一緒に入ることができないので、転びそうになっても、こうして受け止めてあげられませんよ」


「もう、分かってるっていってるじゃない! 今は、五十嵐がいるから気を抜いていただけで」


(俺がいるから……か)


 そんな可愛らしい事をいわれたら、このままどこかへ連れ去ってしまいたくなる。


 早く思い出してほしい。

 また、あの頃みたいに名前で呼んで欲しい。


 そうすれば、心置きなく

 あいつらから奪うことができるのに──


 そう思うと、繋がったままの手に自然と力がこもった。


「五十嵐?」


「いえ……相変わらず、お嬢様は可愛いことをおっしゃいますね。俺がいるからだなんて……それに、今日は可愛いだけでなく、とても綺麗で、見惚れてしまいそうです」


「ッ……あ、ありがとう。でも、そんなこと面と向かって言わなくていいわ」


「なぜですか? 素直にそう思ったから、そう申したまでですが」


「は、恥ずかしいからに決まってるでしょ。わざわざ言わなくていいって言ってるの!」


「ふふ、それは失礼致しました。ですが、そうして恥じらう姿を見せられると、益々いじめたくなってしまいますね」


「ッ……」


 いつもより距離が近いせいか、声も近い。さざ波のように低く穏やかな声が、耳元で語りかけてくる。


「っ~~~もう、またそうやってからかって! 彼女に言いつけるわよ!」


「言いつけたければ、どうぞ?」


「なにそれ、またヤキモチ妬かれて知らないわよ」


「むしろ妬いて欲しいですね。きっと可愛い」


「人をダシに使わないで。五十嵐は、本当に彼女一筋って感じね」


「そうですね。前にも申し上げましたが、この世界の誰よりも愛していますよ。だから、絶対に


「……!」


 瞬間、繋がった手に、また力がこもって、結月は頬を赤らめた。


 見つめる瞳が、あまりにも真剣なものだから、時々錯覚してしまいそうになる。


 その言葉が全部。

 自分に向けられているものじゃないかって……


「そ、そう。あの、もう大丈夫だから、はなして……っ」


「はい。では、また転びそうになった時は、私の腕に掴まってください」


「もう、転びません!」


 結月が、恥じらいながらそう言って、その後レオが手を離すと、結月は、その離れた手をキュッと握りしめた。


(どうして、こんなに……ドキドキするのかしら……っ)


 不意に、幼い頃を思いだした。モチヅキ君と一緒に過ごしていた、あの8年前の事。


『──結月』


 そういって、モチヅキ君に名前を呼ばれるのが嬉しかった。


 声を聞く度に、ドキドキして、たまにしか会えなかったけど、ほんの数時間でも、傍にいられるだけで幸せだった。


 でも、それはきっと、モチヅキ君に『恋』をしていたから。それなのに……


(そんなはずないわ……)


 五十嵐は『執事』だ。だから、そんなはずはない。ドキドキするのは、この気持ちは──そうじゃない。


 だって、私の好きな人は、今もずっと


 のはずだから──

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