第18話 チョコレート


「斎藤は、昨日付けで、退職いたしました」

「……え?」


 その瞬間、まるで鈍器で殴られたような衝撃を受けた。車の前で立ち尽くしたまま、結月はただただレオを見上げる。


「た……退職?」


「はい」


「ま、まって、辞めたって、どうして!? 昨日は、そんなこと一言も……!」


 信じられないとばかりに、結月は唇を震わせた。


 昨日、学校に迎えに来てくれた時、斎藤は普段通りだった。辞める話なんて話、一言も聞いていない。それに


「そんなはず、ないわ……だって、私になんの挨拶もなく辞めるなんて……っ」


 あの斎藤に限って、そんなことありえない。

 だが、そう訴える結月に、レオは


「突然決まったことでしたので……それより、今日は、早朝授業がございます。そろそろ出発しないと遅れてしまいますよ」


「……ッ」


 再び、車に乗るよううながされると、結月はぐっと息を詰めた。


 聞きたいことも、納得いかないこともたくさんあった。だが、確かに学校に遅刻するわけにはいかない。結月は、差し出された執事の手をとると、渋々車の中へと乗り込んだ。


「五十嵐……運転できるの?」


 結月の後に続き、レオもまた運転席に乗り込むと、それを見て、結月が背後から声をかけた。


 後部座席から斜め前を見れば、若々しい男性後ろ姿がある。いつもとは違う──「斎藤」ではない後ろ姿。


「はい、ご心配には及びません。ちゃんと免許も持ってますよ」


「そう……学校の場所は?」


「存じております。この辺りの地理には詳しいので。それに斎藤の仕事は、全て私が引き継ぎましたので、ご安心ください」


「…………」


 淡々と執事が答えると、結月はその後レオから視線をそらし、車の外を見つめた。


(どうして……っ)


 ゆっくりと車が動き出す。

 

 車窓から見える空は、とても澄み渡っているのに、結月の心は、まるで土砂降りの雨が降り注いでいるかのように、ひどく暗然としていた。




 ✣


 ✣


 ✣



 その後、高校に着くと、校内の広々としたロータリー前で、レオが車を停めた。


 結月が通う高校「純心女子学院じゅんしんじょしがくいん」は、いわゆるお嬢様ばかりが通う"女子校"だ。


 社長や医者の娘に、財閥や政治家の娘。中学からのエスカレーター式のため、朝ロータリーで見る顔も、見知った顔のお嬢様ばかりだった。


「お嬢様、着きましたよ」


 そして、後部座席のドアが開いたかと思えば、執事がサッと手を差し出してきて、結月は呆然とした意識を覚醒させた。


 素直に手を取り、ゆっくりと車から降りる。 


 だが、斎藤のことが、よほどショックだったのか、結月は酷く沈んだ顔をしていた。


 無言のまま呆然とする、お嬢様。


 レオはそれを見て、スーツのポケットから何かを取りだすと、それを結月の目の前に、そっと差し出してきた。


「どうぞ」


「え?」


、食べる?」


 差し出されたそれは、個包装されたチョコレートだった。

 手の平に乗せられたチョコを見て、結月は呆然と


「ぁ、うん。食べ…………って、食べるわけないでしょ!?」


 だが、瞬間、我に返った結月は、慌てて撤回した。


「な、何を考えてるの! ここ学校なのよ、お菓子なんて食べていいわけ……それに、あなた、今……っ」


 しかもこの執事、お嬢様に向かって、を使った!!


 普段は礼儀正しく、丁寧な言葉遣いで対応するくせに、いきなり「食べる?」なんてフレンドリーに言い放つものだから、結月は酷く困惑する。


「そ……チョコそれ、早くしまって……!」


「このような安物のチョコを食べているなんて、ご学友に思われたくありませんか?」


「ち、違うわ! そういうこと言いたいんじゃなくて、私はだから、しまってほしいと──て、それ安物なの!?」


「はい。スーパーで、一袋100円で売っているチョコです。お嬢様が、いつも食べてる高級チョコとは全く違う、庶民の味ですね」


「っ……嫌味たらしいこと言わないで!? それに、いつも食べてるチョコが高級かどうかなんてわからないわ! 私は、愛理さんが選んできてくれたものを食べてるだけだもの!」


(……相変わらずだな。この世間知らず)


 さすが、お嬢様とでもいうべきか?


 少し懐かしい記憶を思い出しつつ微笑めば、レオはその後、あろうことか手にしたチョコレートを、自分の口の中に放りこんだ。


「ちょ……!?」


「お嬢様もいかがですか? 安いですが、そこそこいけますよ?」


「……っ」


 タメ口を使ったばかりが、"あるじの前でお菓子を食べる"という執事としてあるまじき行為に、結月の目には、自然と涙が浮かびはじめた。


 なぜ急にそんな意地悪をするのか?

 その意図が全く分からない。


「なんなの急に……っ。私のこと困らせたいの? 斎藤は、そんなこと一切しなかったわ……!」


「…………」


 周囲では、他の学生達が運転手たちと軽く会話を交わしたあと、校舎に入って行くのが見えた。


 周りの目が気になったのか、それとも無礼すぎる執事に困惑しているのか、涙目で困りはてる結月に、レオは苦笑する。


「別に、困らせたいわけではありませんよ。とても辛気臭い顔をされていたので、気持ちを和らげようと思っただけです。せっかく可愛らしいお顔をされているのですから、笑わないと勿体ないなと思いまして」


「……っ」


 じわりと浮かんだ涙を拭うように、執事の手がそっと目尻に触れた。


 だが、その感触は逆に涙をさそうもので、今まで押さえていた感情が、喉の奥から次々と溢れ出してきた。


「どうやって笑えっていうの!! 急に辞めたのよ、斎藤が!」


「……」


「ずっと、幼い頃から側にいてくれたの! 私が物心つくころから、ずっと……っ」


 幼い頃から、ずっと学校への送り迎えをしてくれた。


 車の中の時間は、いつも楽しくて、悩み事や不安があれば、親の代わりに聞いてくれた。


 そんな斎藤は、結月にとって、実の父より"父親らしい人"だった。


 だが、そんな人との別れが、まさかこんなあっさり訪れるなんて――


「五十嵐には、分からないわ……私にとっては、家族のような人だったの! 父親のような人だったの! それなのに……っ」


 結月の悲痛な声は、ひどく胸をうった。


 その気持ちは、痛いほど分かってるつもりだった。でも……


「お嬢様は、そう思っていたかもしれませんが、違ったのでしょうね?」


「……え?」


 視線をそらさず、真っ直ぐに発せられた言葉に、結月は息を飲む。


 なにより、その言葉は、酷く胸に付き刺さった。


「斎藤は……違う?」


「はい。使用人を家族のように思うのは結構ですが、それでも彼らは、。旦那様に金で雇われ、お嬢様のお世話をしているに過ぎない。彼らが、あなたの側にいてくれるのは──あなたが、だからですよ」


「……ッ」


 目尻に溜まった涙が、今にも溢れ出しそうになった。


 だって、とっくの昔に、叩きつけられていた現実。

 それを再度、自覚させられたから。


 わかってる。

 わかってる。


 そんなの……っ


「そんなの、わかってるわ……っ」


 ぐっと涙を堪え、絞り出すように言葉を発すると


「それでも私にとっては、家族のように大切な人達なの!!」


 怒り任せに叫んだ結月は、その後、逃げるように校舎の中へと走りだした。


「お嬢様」


 だが、そんな結月を、レオは再び呼び止めると


、食べたくなったら、いつでも言ってくださいね?」


「……っ」


 そう言って見せつけられたのは、先程、差し出されたチョコレートだった。


 だが、反省の色もなく、どこか余裕そうな笑顔を浮かべてる執事に、結月は


「いりません!!」


 そう、はっきりと拒絶の言葉を返すと、再び校舎の中へと駆け出していった。


「あーぁ……振られちゃったな」


 走り去った結月を見つめ、レオは残念そうに呟く。

 だが、そう言いつつも、その表情は一切残念そうではなかった。


 この屋敷にきて、初めて結月のを見た。


 いつも穏やかで、顔色一つ変えないお嬢様。

 それはまるで、感情のない「人形」のようだった。


(泣いた顔……久しぶりに見た)


 落ち込んだ顔も、怒った顔も、久しぶりに見た。


 変わり映えのしない毎日に、感情が薄れてきたのなら、その感情を揺さぶればいい。


 泣かないなら、泣かせてみればいい。

 怒らないなら、怒らせてみればいい。


 笑えないなら、笑わせてあげればいい。


 目に涙を溜めて必死に叫ぶ姿は、酷く痛々しかった。だけど、その姿にほんの少しだけ、あの頃の結月が戻って来たような気がした。


「家族……か」


 先程の結月を言葉を、改めて復唱する。


 結月にとって、使用人達は「家族」のように大切な人達。


 そんなの、よくわかってる。

 だけど──


「もう、あんな人達、必要ない」


 結月、君の家族は──


「俺一人で……十分だ」


 愛しい人の背を見つめ、ボソリと呟いた執事のその言葉は、朝の雑踏の中に静かに掻き消えていった。

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