第12話 母親と記憶


「辞めさせられてしまったんだ。8年前に」


 その瞬間、声を暗くし答えた斎藤を見て、レオは眉をひそめた。


 辞めさせられた。

 そして、その言葉が、重く深くレオの思考にのしかかる。


「白木君はね。お嬢様が赤ちゃんの時から面倒をみていたメイドでね。お嬢様にとっては、母親のような人だったんだ」


「…………」


 そして、その話は、レオの古い記憶とも繋がった。


 あの頃、結月は確かにそのメイドのことを、母親のように慕っていた。何度と結月の話にもでてきて、レオ自身も、幾度か、その白木というメイドを見かけたことがあったが、本当に仲睦まじい親子のような関係だった。


 それなのに──


「なぜ、その白木さんは、辞めさせられてしまったのですか?」


 レオが問いかければ、斎藤は草取りの手を止め、レオに視線を向ける。


「実は、その8年前に、お嬢様が屋敷の階段から落ちて大ケガをしてしまってね。頭から出血して昏睡状態になって、一週間、目を覚まさなかったんだ」


「…………」


「このまま目を覚まさないんじゃないかって、みんなして心配したよ。でも、幸い一命は取りとめて、お嬢様は無事だったんだが、白木君は、その責任を負わされて解雇されてしまってね」


「…………」


「あの時のお嬢様は見ていられなかった。『自分のせいで、白木さんが辞めさせられちゃった』って、酷く泣いてらしてね。……まぁ、結月様は、阿須加あすか家の大事な一人娘だ。旦那様と奥様の気持ちも分からなくはないが、それからお嬢様は、あまり外出したいと言わなくなってしまってね。きっと、また自分が怪我でもしたら、使用人に迷惑がかかるとでも思っているんだろう」


 斎藤が、小さくため息をつけば、レオもまた胸を痛めた。自分の知らない間に、結月は親よりも深い絆を得ていた使用人を、一人失っていたのだと。


 時には優しく、時には厳しく。


 全く親から見向きもされなかった結月を、我が子のように慈しみ、あのような優しい娘に育ててくれたのは、きっと、そのメイド──白木しらき 真希まきだ。


 彼女がいなければ、レオだって、結月に恋することはなかったかもしれない。


(……そうか、それで)


 斎藤の話を聞きながら、レオは手にしたデッキブラシのをきつく握りしめた。


 は、結月の気持ちなんて、何も考えていない。そう、何よりも嫌悪感を抱くのは、結月の親。


 ──『阿須加あすか 洋介ようすけ』と『阿須加あすか 美結みゆ』だ。



「五十嵐君、ありがとう。すっかり綺麗になった」


「……!」


 すると、斎藤に再び声をかけられ、レオはハッと我に返った。見れば、斎藤は花壇の手入れを終え、噴水の前まで歩み寄ってきていた。


「あとは大丈夫だから、シャワーでも浴びておいで」


「……あ、はい」


 斎藤の呼びかけに素直に答えると、レオは噴水の中から出て、その後、また問いかけた。


「あの、斎藤さん、ひとついいですか?」


「ん? なんだい?」


「お嬢様が、階段から落ちて目を覚ましたあと、なにも変わったことはありませんでしたか?」


「変わったこと? いや、特には……あ」


 だが、なにかを思い出したのか、斎藤は言葉を詰まらせた。


「そういえば、医者には、と言われたそうだ。でも、その半年間、特に変わりなく過ごしていたから、食事会に参加した相手の名前を忘れているとか、学校の授業内容が半年遅れたくらいで、とくに生活に支障はなかったけどね」


「……そうですか」


 だが、その言葉に、レオはある確信を得た。


 結月はその時、頭を強く打って昏睡状態になり、一週間目を覚まさなかった。ならば、なにか後遺症が残っていても不思議ではない。


 つまり、結月は今──


 そして、その「空白の記憶」の中に……


(俺との時間記憶が、あるってことか)


 その瞬間、結月のことを思い、レオはそっと目を閉じた。自分が結月と別れた後、そんな事があったなんて、全く知らなかった。


 目を覚ましてくれて、良かった。

 無事でいてくれて、良かった。


 だが、目が覚めたあとの結月のことを思うと、酷く心が傷んだ。


 半年分の記憶を失って呆然とする中、同時に母親のような人を失い、全く記憶のないあの『箱』を目にして、結月は何を思ったのだろう。


 それを思うと、今すぐにでも抱きしめたくなった。

 だが、そんなこと出来るはずもない。


 なぜなら、記憶を失っている結月にとって、今の自分は、でしかないのだから──


「五十嵐くん」


 すると、また斎藤に声をかけられ、レオが振り向けば、斎藤は噴水の中を綺麗に流し終え、また新たに水を溜めているところだった。


 ゆっくりとその水面が満ちていく中、レオはそれを呆然と見つめながら斎藤の話に耳を傾ける。


「私は、今夜からに戻るつもりなんだが、夜の管理は一人でも大丈夫かい?」


「はい。問題ありません」


「はは、君が優秀で良かった」


 にこやかに笑う斎藤。通いに戻ると言うことは、今夜から、この屋敷に寝泊まりする男は自分だけになると言うこと。


 そんなことを漠然と考えながら、レオは少しだけ考え込むと、斎藤の姿を見つめ、また微笑む。


「斎藤さん、後で部屋に伺っても良いでしょうか?」

「え?」


 唐突に出たその言葉に、斎藤が首を傾げる。


「私の部屋に? 別に構わないが、どうかしたのかい?」


「少し、お話したいことがあって」


「話? なんだい改まって。時間のかかる話かい?」


「いいえ──」


 その返答に、レオはすっと目を細めると


「大丈夫ですよ。すぐに、終わりますから」


 そう、小さく笑った。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る