第15話 キス


 ふわりとカーテンが揺れ、春の香りが部屋の中に舞い込んだ。


 すると、その瞬間、ゆっくりと距離を近づけたレオは、呆れたような声を発した。


「……無防備すぎ」


 唇が触れるまで、あと数センチ。


 こんなにも近くまで異性が近づいているにも関わらず、目を覚ますどころか、なんの警戒心もなく眠り続ける結月に、レオは苦笑する。


(……まさか、前の執事の前でも、こんなに無防備だったわけじゃないだろうな)


 後でミルクティーを淹れに行くと言っていたにも関わらず、この有り様。その気になれば、このままキスするくらい容易たやすいことだった。


 だが、いくら昔、思いあっていたとはいえ、今の結月に自分の記憶はない。


 結月にとって今の自分は、一ヶ月前に会ったばかりの見ず知らずの男で──ただの執事。


 そんな彼女に、いくら好きだからといって、無理やり唇を奪うなど、できるはずもなく……


(そういえば、寝顔、初めて見たかも?)


 眠る結月を見つめ、レオは、ふとそんなことを考えた。


 あの頃は、昼間、屋敷の使用人たちに隠れて、こっそり会っていた。


 当然、起きている結月しか見ていなかったし、ここ一ヶ月、執事として夜の見回りをすることはあったが、こんなも近くで、結月の寝顔を見ることはなかった。


「ふ……可愛い」


 今まで見たことのない愛らしいその姿に、レオは頬を緩めた。


 だが、それと同時に午前中、斎藤から聞いた話を思い出す。


 あの後、について少し調べた。


 結月のような記憶喪失は、一般的に『逆行性記憶障害(または、逆行性健忘)』と言われていて、事故などで脳挫傷を受けた際、それ以前の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまう、いわゆる脳の障害。


 記憶を失う期間は、数ヶ月から数年、中には数十年に及ぶ症例もあるらしい。


 通常は、発症時点に近い出来事ほど思い出しにくく、発症時点から遠い過去の出来事ほど思いだしやすい。だが、これが一過性のものなら、数ヶ月で記憶を取り戻すらしいが、結月の場合、記憶を失ってから、もう8年。


 慢性的な記憶障害だ。


 ハッキリいって、結月が、その半年の記憶を思い出す確率は──0に近い。


「……本当に、何も覚えてないのか?」


 頬に触れ、聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。


 本当に、全て忘れてしまったのだろうか?


 俺と出会った日のことも

 二人で過ごした、あの日々も


 そして、別れ際に誓い合った

 あの『約束』も──


「ん、……っ」


 すると、結月が少しだけ、苦しそうな声を漏らした。


 さすがに身の危険を感じたのか、はたまた偶然か? その姿を見て、レオは、近づきすぎたかと、身を起こし、結月の元から離れた。


 だが、その直後、レオの身体は、なぜか距離を取るのをはばまれた。何事かと自分の脇腹に視線を送れば、結月の細い手が、燕尾服の裾を掴んでいた。


「……え?」


 突然のことに、レオは瞠目する。

 だが──


「……、け……て」

「?」


 その後、ギュッとレオの服を握りしめ、呟いた結月を見て、レオは大きく目を見開いた。


 何を言ったのか?

 それは、はっきりとは聞き取れなかった。


 だけど、まるで『助けて』と言っているようにも聞こえて──


「結月……っ」


 咄嗟に、その手を取ると、レオは、まるで『助けに来たよ』とでもいうように、結月の手を握りしめた。


 だが、その手に直接、触れられない今の自分が、酷くもどかしく感じた。


 白い手袋ごしに伝わる体温に、結月との距離を感じる。どうして、今の自分は、ただの執事でしかないのだろう。


 結月のために、こうして執事となって戻ってきたはずなのに、今は、結月の執事でいることが──こんなにも、辛い。


「結月……っ」


 再度、名を呼ぶと、レオは小さく唇を噛み締めた。


 ベッドの上に投げ出された、もう片方の結月の手を見れば、あの『空っぽの箱』が握られていた。


 箱を手にしたまま眠ってしまったのか、結月は今、その箱を手に、どんな『夢』を見ているのだろう。


 悲しい夢をみているのだろうか?

 辛い夢をみているのだろうか?


 その言葉が、自分に向けられた言葉がどうかすら、今は分からないはずなのに


「……大丈夫だよ、結月」


 眠る結月に視線を落とすと、レオは慰めるように優しく囁きかけた。


 握りしめた手を緩め、そのまま優しく指を絡めると、恋人繋ぎになり、より深く繋がった手を、ベッドの上へと縫い付ける。


 ──大丈夫。

 結月は、この箱を大切だと言った。


 なら、きっと、今も俺たちの『夢』は、この『箱』と共にある。


 例え、記憶を失っても

 例え、どんなに時間が経ってしまっても


 その身体は

 その心は


 ──きっと、覚えてる。



「大丈夫。必ず俺が思い出させてあげる。君の願いがなんだったのかも、あの日交わした約束も……何もかも、全て」


 ベッドに縫い付けた手を握りしめ、更に距離をつめると、レオは結月のひたいに、優しく口付けた。


 そっと唇が触れれば、絡みあった指先が、微かに反応したのを感じた。


 まるで返事をするように、ぎゅっと握り返された、結月の手を、更に握り返し、レオは再び、結月を見つめた。


「好きだよ、結月」


 それは、まるで、初めて彼女に口付けた、あの時と同じように。



 たとえ君が

 俺のことを、忘れてしまっても


 たとえ、この思いが

 一方通行なものだとしても


 それでも、俺は

 ずっとずっと、君のことを




「───愛してる」





 どこか切なさを秘めた声が響くと、その瞬間、春の柔らかなか風が、再び部屋の中に吹き抜けた。


 サラリと髪を揺らすその風は、あの日、二人が最後の言葉を交わした時と同じように


 ──甘く優しい、花の香りがした。







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