第14話 箱の中


『お嬢様、お身体に触ります。少しお休み下さい』


 父と母が帰ったあとは、メイドの矢野に連れられ、幼い私は自分の部屋へと戻った。


 部屋の中を呆然と見渡すと、先程の父の言葉が蘇ってきて、溢れそうになる涙を必死に堪える。


『女としての価値を失うところだった』


 その言葉は、ひたすら頭の中を駆け巡っていた。


 辛かった。愛されていないのが、父と母にとって、自分はただの『道具』でしかないということが


 そして、母親のように思ってた人を、突然失ってしまったことに……


『っ……白木さん……ごめん、なさい……っ』


 お医者様には、頭を強く打ったショックで、半年ほど記憶を失っているといわれた。


 記憶がないが故に、私は白木さんが悪くないということを、なにも証明できなかった。


『どう、して……っ』


 包帯で巻かれた頭をおさえながら、私は必死になって考えた。


 どうして、覚えてないの?

 どうして、忘れてしまったの?


 なんで私は、階段から落ちたの?


『っ、お願い……思い、出して……っ』


 なんでもいいから、思い出したかった。部屋の中を見回し、私は自分の記憶を必死になって手繰り寄せようとした。


 だけど、カレンダーは、いつの間にかに半年近く進んでいて、学校で使っているノートは、確かに自分の字で書かれているのに、その授業の内容には全く覚えていなかった。


 本棚には、読んだことのない本が何冊も並んでいて、下ろしたてだと思っていた消しゴムは、いつの間にか半分に減っていた。


 見回せば、見回すほど、その部屋には、記憶にないものが至る所にあった。


『う……うぅ……っ』


 ──思い出せない。

 階段から落ちる前の、約半年分の記憶。


 どれだけ部屋の中をひっくり返しても、どれだけ思いだそうと思考をめぐらせても、その「空白の期間」のことだけは、何一つ思い出せなかった。


 だけど


『なに……これ』


 そんな時だった。

 この『箱』を、見つけたのは──


 それは、最後に開けた引き出しの中。その一角に、大切そうにしまわれていた、淡いブルーの小さな箱。


 だけど、それは全く記憶のない箱で、私は震える手で、そっとその箱を手にとった。


 見覚えのない箱。

 知らない箱。


 だけど、それは、初めてとは思えないほど手に馴染んで、私はすがる思いで、その箱を開けてみた。


『え……?』


 小さく音を立てて開いた、その箱の中。

 だけど、そこには何も入っていなかった。


『空っ……ぽ?』


 それは、どこにでもありそうな、何の変哲もない箱だった。


 だけど、その箱の底を見た瞬間、なんでかわからないけど、急に涙が溢れてきた。


『っ……ぅ、うぅっ』


 まるで崩れ落ちるように、その場に座り込むと、私は箱を握りしめたまま、しゃくり上げるように声をあげて泣き始めた。


『っ、ぅう……うっ、ぁぁあああぁ……っ』


 父のこと、母のこと、白木さんのこと。

 そして、記憶がないということ。


 それまで堪えていたものが、一気に溢れ出してきて──


『……け……て…っ』


 私は、その箱をみつめながら


『……たす、け……て……っ』


 ただひたすら、そう呟いていた。


 それはまるで、身体の奥から叫ぶように

 なにかを訴えかけるかのように


 ただただ箱を抱きしめたまま

 何度も、何度も……



 その時のことは、今でもよく覚えてる。


 どうして、こんな箱を持っているのか?

 どうして、箱を見て泣いているのか?


 どうして、こんな空っぽの箱に、こんなにも胸がしめつけられるのか?


 何もわからないはずなのに、その日私は、涙と声が枯れるまでの間、ずっとずっと、その『箱』に


 ──助けを求めていた。





 ✣


 ✣


 ✣




 銀のプレートの上に、ティーセットを一式用意したレオは、コツコツと靴の音を響かせ、二階にあるお嬢様の部屋にむかっていた。


 階段を上り、向かって左の部屋。

 結月が使用している部屋の前に立つと、レオはコンコンと数回扉をノックする。


「……?」


 だが、いつもなら、すぐに返事が来るはずが、扉の奥はシンと静まりかえったままで、レオは軽く首を傾げると、再度扉を叩き、中の人物に声をかける。


「お嬢様」


 だが、その後しばらく待っても、中から返事はなく、心配になったレオは、そっと扉を開けて中を覗き見ることにした。


 すると……


(……寝てる、のか?)


 どうやら、眠ってしまったのか、天蓋付きの大きなベッドの中には、小さく寝息を立てている結月の姿あった。


 レオは、そのまま部屋の中に入ると、物音を立てないよう、そっと扉を閉める。


 中央に置かれた丸テーブルまで歩み寄り、手にしたティーセットを置くと、その足で、眠るお嬢様の元へと進んだ。


 窓が開いているからか、優しい風が室内に入り込み、それは、カーテンを揺らし、同時に結月の前髪をサラサラと揺らす。


 綺麗にメイキングされたベッドは、持ち主が眠る部分にだけ皺がより、清潔感のある白のシーツには、長く綺麗な髪が無造作にちらばっていた。


 そして、白く柔らかそうな頬と、ほのかに色づいた唇。目を閉じ眠るその姿は、まるで、おとぎ話に出てくるお姫様のよう。


「お嬢様、お茶をお持ちしましたよ」


 その愛らしい姿を見つめながら、レオは優しく声をかけた。


 だが、それでも結月が起きることはなく、レオは、静かにベッドの上に腰掛けると、結月の頬に、そっと指を滑らせる。


 遠慮がちに、優しく。


 だが、触れた指先には、手袋ごしでも、しっかりと結月の体温が伝わってきた。


 あの日、別れてから8年。成長し、女になった結月は、とてもとても綺麗で……


「お嬢様……起きないのですか?」

 

 再度囁くが、よほど眠りが深いのか、結月は寝息をたてるだけで、レオは、触れていた頬から、一旦指を離すと、そのまま結月の横に手をつき、覆い隠すような体勢になった。


 キシッ──


 と、体重をかけていた場所が、ベッドの中央に移動する。


 こんな所を誰かに見られたら、自分の立場は一気に悪くなる。


 それは、わかっているはずなのに……


「結月──」


 愛しい人を見下ろし、レオはハッキリとその名を口にした。


 お嬢様を呼び捨てるなんて、執事としては、有るまじきこと。

 

 だけど、本当には、ずっとこうしたいと思っていた。


 ここに来た日から、ずっと。


 執事としてではなく男として、 彼女の名を呼び、彼女に触れたいと、ずっとずっと思っていた。


「結月……起きて。起きないと──」


 言いかけて、そのままレオは、結月の唇に視線を落とした。


 まるで、誘うように色づく唇は、他の誰でもない自分だけのモノ。


 誰にも渡したくないし、誰にも触れさせたくない。


 そんな思いが溢れた瞬間、レオは更に距離を詰め、眠る結月の唇に、ゆっくりと自身の唇を近づけた。


 


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