第5話 お嬢様と執事


「……え?」


 その瞬間、レオは耳を疑った。触れようとした手は空中でとまり、ただ呆然と結月を見つめる。


 それはまるで『会ったことがない』と、自分の事など『全く知らない』とでも言うようで──


 それどころか、自分を見上げ微笑むその笑みですら、再会した"歓喜の笑み"ではなく、ただの"愛想笑い"なのだと気づく。


(なんで……っ)


 何が起きているのか、全く分からなかった。


 あの日、別れてから今日まで、レオは結月だけを思い続けてきた。そして、それは彼女も、結月も同じだと思っていた。


 それなのに──


「あなたが、新しくきた執事?」


 すると、レオの動揺には気づくことなく、結月は、またふわりと笑い、レオの前にそっと手を差し出してきた。


。この屋敷のあるじの阿須加 結月です。お名前を聞いても宜しいかしら?」


 細くしなやかな女の手が、視界に入る。


 だが、差し出された手をとることもできず、レオはただ呆然と結月を見つめた。


 初めまして──その言葉が、酷く心をえぐる。


 だって、初めてではないのだ。


 優しく名を呼ぶあの声も、楽しそうに笑うあの姿も、しっかりと自分の脳裏なかには刻まれている。


 それなのに──


「?」


 何も言えず黙りこんでいると、全く反応を示さないレオを見て、結月が首を傾げる。


 名前を聞かれて、名乗らない執事に驚いているのか、レオは、立場的にもこのままではまずいと、最後の望みをかけ、恐る恐る自身の名を口にする。


「い、五十嵐……レオです」


 柄にもなく声が震えていた。

 だが、せめて名前を聞くことで、思い出してくれたら──


「そう。ね。初めは分からないことも多いと思うけど、この屋敷で共に過ごすからには、あなたは私の家族も同然です。これから宜しくお願いしますね?」


 だが、そう言って、可愛らしく微笑んだ姿は、余りにも残酷だった。


 名前を告げても、全く表情を変えないその姿に、もう彼女の中に「五十嵐 レオ」という存在はいないのだと実感させられる。


(どうして……っ)


 胸が締め付けられ、呼吸すらままならなくなる中、レオはぐっと奥歯を噛み締めた。


 俺と過ごした時間は、結月にとって、簡単に忘れてしまうほどの何でもない時間だったのだろうか?


 名前すら、その存在すら、消えて、なくなってしまうほどの?


 じゃぁ、俺は今まで、何のために――?



 ―――コンコンコン!


 すると瞬間、部屋の扉をノックする音がして、結月がまた声を上げた。


「はい」

「失礼致します」


 その声に、ガチャと部屋の扉が開く。

 すると、そこにはメイド長の矢野が立っていた。


 そして、少し気難しそうな顔をした彼女は、一礼して中へ入ってくる。


「五十嵐さん、お嬢様へのご挨拶は、他の者と共にと、お伝えしたはずですが?」


 恵美を向かわせたことで、慌ててこちらに来たのか、どうやら、レオが一人で結月の部屋に訪れたのが気に食わないようだった。


 だが、ここで敵を作るわけにはいかない。


 レオは、一旦気持ちを切り替えると、矢野にむけ、丁寧に頭を下げる。


「申し訳ありません。別邸からの電話対応に追われていると、お聞きしたもので」


「まぁ、今回は私にも非はあります。ですが、今後、勝手な行動は慎んでください。お嬢様、新人執事が申し訳ありません。なにか、失礼はございませんでしたか?」


「いいえ、何も」


 あるじから差し出された手を取らなかっというのに、その事には一切触れず、結月は優しく微笑んだ。


 執事の無礼を、なかったことにしてくれたのだろう。


 だが、そんな結月の優しさに、レオの胸は、またズキズキと痛む。


 自分でも、酷く傷心しているのが分かった。

 ここに来た目的すら、忘れてしまうほどに……


「お嬢様、改めて紹介致します。本日より、この屋敷の執事として仕えることになった、五十嵐レオです。どうぞ、"五十嵐"とお呼びつけください」


 隣に立った矢野が、事務的な言葉を並べる中、レオは無言のまま、結月を見つめていた。


(本当に……忘れたのか?)


 何もかも?

 なら自分は、これから、どうすればいい?


 諦める? 結月を?

 いや、そんなことできるわけがない。


 だって俺は、こんなにも、彼女を愛してるのに──



「五十嵐、どうしたの?」


 すると、再度、名を呼ばれて、レオは改めて自覚した。


 もう「レオ」と、呼んでくれないのだと。結月にとって今の自分は『ただの執事』でしかないのだと。


 だが、それがまた、レオに一つの《決心》を抱かせる。


 外から柔らかな風が室内に入り込むと、薄いレースのカーテンを揺らし、同時のレオの前髪を揺らした。


 レオは、一度目を閉じ、自身の胸元に手を添えると、再び結月を見つめ、言葉を放つ。


「初めまして、お嬢様。本日より、結月様の執事としてお仕えする、五十嵐レオと申します。これより私は、お嬢様の忠実なしもべ。どうぞ、なんなりとご命令ください」


 言いたくもない「初めまして」をあえて告げたのは、また、始めるためだ。


 君が俺を忘れたのなら、まだ刻めばいい。


 俺の《記憶》を、嫌というほど、その身に刻み込んで、また君の中を、俺でいっぱいにすればいい。


 だから、早く思い出して?


 そのためなら俺は、何度だって君に、愛を囁くから──…






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