夢の国へ
手のひらに落とされたキーはスマホより軽く、退職願より遥かに重たかった。
鍵穴にキーを挿し、いったん手を止める。大きく深呼吸した。そして横目でグンさんを見る。この時の目は、ワイヤージレンマに駆られる爆弾処理班のそれに似ていただろう。グンさんはゆっくりと頷き、目で合図した。大丈夫だ、さあキーを回してごらん、と。
僕はもういちど深呼吸し、恐る恐るキーを回した。マスタングは一秒ほどカラカラと音を立てると、ついにはけたたましく嘶いた。V8サウンドがあっという間にガレージを充満させる。これまで大人しい軽自動車しか乗ってこなかった僕にとって、それは異次元のマシーンだった。
しばらくアイドリングの振動に浸っていると、グンさんが「なにか忘れてない?」と言って身を乗り出し、ハンドルの下の方まで手を伸ばしてきた。すると頭上の幌が後退し、まるで見えない手によって器用に折りたたまれたかのように行儀よく収まった。
思わず感嘆の声を漏らしてしまった。ある種ドラマチックな一連の動きより、幌が電動で展開することに驚いた。僕が呆気にとられていると、「よし、行こうか」とグンさんが発進を促す。
僕は教習所に通う生徒のように、一つ一つの動きを確認しながら丁寧にクラッチをミートさせると、思っていたより遊びの多いステアリングにややふらつきながらもガレージから滑り出た。
まだぎこちなさを見せるマスタングの後姿を、二本の桜の木が見送っていた。
整備工場の前を徐行すると、グンさんは昼休み中のスタッフ達に大声で呼びかける。
「ちょっと遊んでくるから!」
誤解を招くようなことを言ったのだから堪らない。これも仕事だと、つい先ほど言っていたではないか。
スタッフ達の輪の中で、身をのけ反らせ、両手を口に当てて思いっきり笑いを堪えている人がいた。さぞ愉快なことでしょう。予感的中ですね、おめでとうございます、高柳さん。
プレハブの前を通過し、ハンドルを左に切って県道に出た。ほんの二時間ほど前まで歩いていた道だ。パーカーのポケットに手を入れて、細い歩道の脇から雑草だけが伸びる退屈な道を、きっと小さな歩幅で歩いていた。
今の僕はどうだろうか。見上げれば青空だし、黒いレザーに囲まれて、頼りないほど細さを極めたハンドルを握り、V8サウンドをBGMに野生の馬を駆っているそこは夢の国の中、とは言いすぎかな――――。
イッツアスモールワールドに引けを取らない廃車ヤードを横目に、ビッグサンダーマウンテンよりスリリングなガードレールをクリアした。近ごろ噂を聞かないけれど、ホーンテッドマンションも真っ蒼な廃屋は鳴りを潜めているのかな。
「いってらっしゃい」と挨拶してくれたのは二人のキャスト、ジェームズ・ディーンとカーブミラーだった。彼らに応える余裕はなかった。なにしろ初めて握る左ハンドルだったから。
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